『ことば』としてのウィスキー
@gagi
『ことば』としてのウィスキー
旅先で不思議な国に立ち寄った。
その国の人々は会話の際に、言葉を使わないという。
代わりに、ウィスキーを言葉として用いる。
どういうことか?
例えば散歩の道中で愛らしいウェルシュ・コーギーと、彼(あるいは彼女?)と一緒に散歩をしているご婦人を見かけたとしよう。
そのご婦人に『可愛らしいワンちゃんですね』と伝えたければ、その時には声を出さない。
どこからともなくウィスキーの瓶をひとつとグラスをひとつ取り出して、注いだものを黙って差し出す。
ご婦人も静かにそれを受け取って口元に運ぶ。
そしてご婦人も自らのウィスキーの瓶とグラスを出して返事をする。
このような具合だという。
「不便じゃないの? って聞いたら、こう返されたよ。『むしろあなた達が使う、言葉の方がわかりづらくて、伝えづらくて面倒だと感じる』とね。彼らは自分たちの会話における文化に誇りを持っているんだ。そしておそらく、我々の言葉の文化よりも高尚だとも考えている」
不思議な国のことは友人から聞いた。
彼に仕事で大陸西側の半島に行くと伝えると、近くの島にそのような国があると教えてくれた。
なぜ彼がそんなことを知っているのか。
それはきっと彼がその不思議な国に赴いて、そこで現地の人々と言葉を、いやウィスキーを交わしたからだろう。
「お前にとっては居心地のいい国なんじゃないか?」
と彼が言った。
私にはどうも吃音の傾向がある。
言葉を離そうとして口を開いても音が喉につっかえて、流暢にいかない。
また聞き取るということも苦手だった。
特別耳が悪いというわけじゃないが、会話文になると途端にそれを十分に聴き取れなくなってしまう。
言葉の文化にとって私はふさわしい存在ではなかった。
不思議な国は、ぱっと見では我々の国と相違するところはなかった。
空港があって、駅があって、道路があって、信号がある。
コートやらダウンやらに身を包んだ人々がスマートフォンを片手に往来を行き交う。
強いて言えば一面の白い曇り空が、際立って寒々しく感じた。
駅から少し離れた通りにある控えめな規模のホテルに、私は宿を取った。
チェックインを済ませ(その際には言葉で対応されてしまった。おそらくは、私が外国人旅行者だから)て荷物を自室に置く。
それから私はホテルのロビーに出て、そこのソファへ座った。
スマートフォンを手に取って夕食のためにレストランを探す。
ロビーの様相はまるで酒場のような雰囲気だった。
室内は薄暗く、暖色の照明が柔らかく全体を照らしている。
壁一面を埋める棚にはさまざまな種類のウィスキーのボトルが並んでいる。
それらの瓶が天井からの暖かい光を照り返して、おのおのに輝いていた。
ロビーに置かれた幾つかのソファーの前にはそれぞれテーブルがある。
そしてそのテーブルにはウィスキーを注ぐためのグラスや、水やお茶などの割材、マドラー等が用意されている。
ロビーには私と、少し離れた別のソファにもう一人ブロンド髪の女性。
受付ではフロントスタッフと、顎髭を蓄えた大柄な男性がやりとりをしている。
彼らはウィスキーを飲み交わしていた。おそらく顎髭の男は国内の人間なのだろう。
受付でのやりとりを終えてホテルを出ようとした顎鬚の男が、ちらっと私を見た。
そして足の向きを変えて私の方へやってくる。
棚から一本のウィスキーを選んで取り、それをグラスに注いで私の前へ置いた。
濃い琥珀色の液体が、照明の光を反射している。
静かに差し出されたグラスは沈黙を守り受け取る。それがこの国での作法だ。
私は作法にのっとって静かにグラスを受け取り、中身を呷った。
ぴりぴりと舌の痺れる、度数の高いアルコール。
まったりとした甘みと、月日をかけて浸み込んだ木の香り。けど、それだけじゃない。
喉に流し込めば、食道と胃がじんじんと熱くなった。
私にもおいしさがわかる素晴らしいウィスキーだ。
けれど、顎髭の男が私に何を言いたかったのかは伝わってこない。
顎髭の男の表情を見てもじっと私に視線を向けているだけで、そこからは何も読み取れない。
仕方が無いから私は、へへ、と笑った。
相手の言葉がよく聞き取れないときにする、私のよくない癖だった。
顎髭の男には、私がよくわかっていないことだけは伝わったようだった。
先ほどと同じように顎髭の男はグラスにウィスキーを注いだ。
そうして再び私の前へ置いた。
もう一度、私はウィスキーを口に運んだ。
舌の上で暴れる情報の奔流。
ただでさえ読み取るのが難しい繊細で複雑な味を、強烈なアルコールが引っ掻き回す。
息をひとつ吐けば鼻腔には、果実のような、燻されたような、木材のような、無数の香気成分による嵐が巻き起こった。
結局私は何一つまともに読み取ることのできないまま、口内のものを嚥下してしまった。
内臓がじりじりとした熱を持った。
顎髭の男がじっと私を見つめている。
やっぱり私は、へへ、と笑うしかなかった。
顎髭の男が少し残念そうに、視線を下げた気がした。
そうして諦めて私に背を向け、彼はホテルを後にした。
ウィスキーによる会話の文化にとっても、私はふさわしい存在ではなかったようだ。
私はレストランに行くのをやめた。
もしも行った先でウィスキーを差し出されたら、私はうまく対応できないだろうから。
幸いにもこのホテルを出て左手へ少し進んだところに小型のスーパーマーケットがあるようだから、食事はそこで調達しよう。
そう思い席を立とうとしたところで、テーブルを挟んで向かいのソファに誰かが座った。
それは私から少し離れた場所に座っていたブロンド髪の女性だった。
彼女もまた、ウィスキーのボトルを持っていた。
テーブルのグラスをひとつ取って、そこにウィスキーを注ぐ。
顎髭の男がくれたものとはまた違う、薄いこがね色のウィスキー。
それをグラスの三分の一ほどまで注いだ後、ウィスキーと同じ量の水を入れた。
それらをマドラーでひと回しして、私の方へ差し向ける。
私は女性の顔を見た。彼女もやはり私をじっと見つめるだけで、表情からは考えがわからない。
私は彼女からグラスを受け取るのが怖かった。
きっとこれを飲んだとしても、私は彼女が伝えようとすることを読み取れないだろうから。
先ほどの顎髭の男性のように目の前の女性をがっかりさせるのが怖かった。
けれどもここでグラスを受け取らないということは我々の国で言えば、あからさまに声を掛けられていると気づいているのに返事をしないようなものだ。
私にはこのトワイスアップを受け取る以外の選択はできない。
グラスを手に持って、恐る恐る内容物を口に含んだ。
やはり複雑な味だ。複雑な香りだ。
私の味覚と嗅覚では読み取りきれない。
けれども彼女がくれたウィスキーはとてもまろやかだった。
ちょうどよいアルコールが舌先を程よく刺激した。ごくんと飲み込めば程よく体がぽかぽかとした。
私の何らかの器官が彼女のくれたウィスキーから、優しさのようなものを感じ取った。
私の口角が緩む。それは卑屈な作り笑いではなく、嬉しさから生じた自然な笑みだ。
私はこの感情を目の前の女性へ伝えたいと思った。
けれど、それを言葉にしてはならない。
この国では会話にウィスキーを用いるのだから。
私は背後の棚の中から、彼女が注いでくれたウィスキーと似通った色あいのものを一本取った。
透き通ったこがね色。
新しいグラスにそれを三分の一注ぎ、同じ分量の水を加えてからマドラーでひと混ぜした。彼女が私にしてくれたのと同じように。
そうしてそれを彼女の前に置く。
女性は私の注いだウィスキーをひとくち飲んだ。
それから、にこりと笑ってくれた。
『ことば』としてのウィスキー @gagi
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