10

 礼一くんが、昨日来たのよ。

 そう綾女さんに告げられたのは、そんな逢瀬を数えきれないほど交わし、息子が小学6年生になった夏のことだった。ひどく暑い日で、冷房の効いた静かな部屋の中で抱きあっているのに、蝉の鳴き声が耳の中でわんわんと鳴り響いているようだった。

 「……礼一が?」

 綾女さんの白くなめらかな肌の下で、背中を撫でられながら丸くなっていた私は、その言葉を聞いても、驚きはしなかった。ただ、来るときが来たのだ、と思った。

 「ええ。ひとりで。膝を擦り剥いていたわ。男の子ね。」

 確かに息子は、体育の授業で膝を擦り剥き、それが痕になって右ひざに残っていた。私はそんな息子の、まだひょろひょろと上にばかり身体が伸びた華奢なシルエットを思い描いた。到底、大人の男とは言えないシルエットだ。それでも息子は、ここへ来た。綾女さんに会いにだ。

 「……追い返してくれましたか?」

 「なぜ? トランプをしたわよ。」

 言葉を疑問符で終わらせてはみたけれど、綾女さんが息子を追い返したとは、私も思っていなかった。綾女さんは、そんなに生易しくはない。私が、息子が男になりきらないうちに、そろそろ綾女さんと離れなくてはならないと、そう思っていることくらい百も承知のはずだ。その上で彼女は、息子とこの家でトランプなどしたと言う。

 「……引っ越すわ。うんと遠くへ。」

 身体を丸めたまま、むしろさらに強く丸まって、自分の身体を守るみたいにしながら、私はそう泣き声で呟いた。

 遅かったのだ。私の未練が、息子をここへつれて来た。

 「それでも、あなたの息子はここへ来る。」

 歌うように、綾女さんが言った。私の背中を撫でる手を止めないまま。

 分かっている。引っ越したくらいで全てがなかったことになるわけもない。それでもそれ以外、私に打つ手はなかった。綾女さんの家には行っては駄目、と息子に言い聞かせたところで、息子の自我はもう、私の手が届かないところまで成長してしまっている。息子の性だって、もう。

 綾女さんは、笑っていた。私の内面の葛藤や、彼女への怖れなんかを、全部了解した上での、不思議なくらい凪いだ微笑だった。

 「……引っ越す。引っ越すの。」

 私は泣きながらさらに身体を縮こめる。その仕草は綾女さんの手を誘うものでしかなくて、綾女さんはそれを承知して、変わらぬ動作で私の背中を撫でる。

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母の友人 美里 @minori070830

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