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なんで、声をかけたのだろう。綾女さんのことを、ずっとずっと、頭の中に住まわせたままで。それが全ての間違いだった気がした。綾女さんに全く振り向いてもらえなくても、ただの友人の息子としか認識してもらえなくても、他の女性に声なんかかけるべきではなかった。それは、誰も幸せにしない行為だ。
「礼一くん?」
また、綾女さんが僕を呼んだ。やっぱり、芯から不思議そうに、きょとんと。僕に今抱きしめられていることが、全くもって理解すらできない異世界の出来事だとでもいうみたいに。
僕は彼女のその声を聞いて、白く清らかな顔に浮かぶ大きな疑問符を見て、全身から力が抜けた。ついさっきまで、力みすぎて全身の筋肉からみしみしと音がしそうなくらいだったのに、一気に力が抜けて、その場に座り込んでしまいそうにすらなった。
ここまでしてみても、僕はやっぱり、物の数にも入らない。これ以上のことをしてみたって、やっぱりそれは、同じだろう。彼女の唇や肉体や、そんなものたちに触れてみたところで、彼女はやっぱり、きょとんとしているのだろう。なにが起こっているのかまるで理解できない、と。
ふらり、と、傾いた僕の身体を、綾女さんは両腕を伸ばして支えてくれた。
「礼一くん? 大丈夫?」
心から僕を案じてる、大人の声だった。子どもの頃、膝を擦り剥いてこの家を訪ねた時にかけてもらった声と変わらず。僕は、どうしようもなく愚鈍な子どもと同じで、ただ立ち尽くしているしかできない。
綾女さんに肩を支えられながら思い出していたのは、窓辺で抱きあっていた綾女さんと母の姿。あれも今の僕と同じだったのかもしれない。母は、綾女さんに手を伸ばしたけれど、全然届かず、それどころか手を伸ばしていること自体に気が付いてすらもらえず、全身の力が抜けて、綾女さんに支えられていたのかもしれない。僕が見たのは、そういう悲しい光景だったのかもしれない。
「礼一くん。」
木々の間をすり抜けて行く風みたいに清かな声で、綾女さんが僕を呼ぶ。
「結婚のことは、よく考えてみた方がいいわよ。」
ごく単純な言葉だった。僕は、彼女の肩に触れることすらできないまま、一度頷いた。ほんとうは、考えるまでもない。明日は婚約者と会う予定が入っている。彼女は、もうじきに迫った結婚式を、とても楽しみにしている。僕は、きっとなにも言わない。綾女さんのことなど、なにも。ただ、自分の中に彼女の思い出を凍りつかせて閉じ込めて、妻になるひとと暮らしていくのだろう。だって、それ以外になにができると言うのだ。
「……これまで、ありがとうございました。」
これで、最後だ。僕がそう思いながら呟くと、綾女さんはやっぱりきょとんとしたまま、こちらこそ、と微笑んだ。
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