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「来週? だったらここへなんて来られないのも当たり前ね。おめでとうございます。」
綾女さんが、ふわりと微笑んでそう言った。心の底からその言葉通りのことしか考えていないのがよく分かる言い方だった。
分かっている。分かってはいるのだ。僕なんて、もしも綾女さんが独身だったとしても、物の数にさえ入らないと。だから僕は、感情的になりそうになる自分を、ぐっと抑え込んで微笑み返した。
「ありがとうございます。」
「早いものね。あなたがはじめてここに来たのは。お母様と一緒に、そうね、まだ幼稚園に行っていた頃だったもの。」
「はい。」
はじめてここに来た日のことを、僕は全く覚えていない。綾女さんに関わる記憶ならばなんでも、喉から手が出るほどに欲しかったけれど、時間の流れは無情だ。
「あっという間に大人になって……結婚ですものね。」
「……はい。」
「おめでたいわ。ひとりでここに来るようになった頃はまだ小学生で……。あの男の子が、こんなに立派になったんですもの。」
「……ありがとうございます。」
言葉を発する前に、一呼吸おいて、自分がなにを言おうとしているのか確認しなくては不安だった。踏み外したくなかった。踏み外さなければ、また綾女さんに会える。また月に一度、ここへ来られる。だから絶対に、踏み外してはいけない。それなのに綾女さんは、いつもの微笑を石鹸みたいに白い頬に浮かべたまま、あっさりと言った。
「もう、ここに来る必要はなくなるのね。」
「……え?」
なにを言われているのか、分からなかった。僕は首を傾げ、じっと綾女さんを見た。彼女は当たり前みたいに微笑んでいて、微笑んだまま僕を見返していた。常の、ううくしい黒い瞳で。
「寂しかったんでしょう。お父様が亡くなってから、お母様は働き通しだったし、再婚もなさったわ。……それが悪いことだって言うわけでは決してないけれど、あなたには寂しいことだったでしょう。それで、ここに来ていたんでしょう? 話し相手が必要で。」
綾女さんの話す言葉は、いつも通り明瞭で穏やかで、とても聞き取りやすいものだった。それなのに、耳に入った側からばらばらになって、意味をなさなくなって、ただの音になってしまう。つまり僕は、認めたくなかったのだろう。綾女さんが言うことを。彼女が俺の訪問を、そんなふうに解釈していたことを。
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