45年後のイマジン
沢 一人
運命の引き合わせと星の囁き
第1話 歴史空間と「平和の装置」
軽井沢の歴史ある洋館を思わせる、都内のクラシックサロン。
深紅の絨毯、磨き上げられた木製パネル、大窓から差し込む木漏れ日が温かみある空気を醸し出している。
学芸員でありながら、自らの芸術的直感を信じるユキ・オザワが、次の展示の構想を練るために借りている特別な場所だ。
ユキは、サロンの一角にある「参加型アート作品」の前に立っていた。
それは、彼女が「平和を願う装置」と名付けたものだ。
テーブルの上には、無数の小さな星型の紙が置かれ、その脇にはペンと、
「あなたの願いを込めて、星を世界に放とう」
と書かれた小さな箱がある。
すると突然、サロンのドアが開いた。
ユキの視線は、サロンに入ってきた一人の男性に釘付けになった。
彼の容姿は、まるで半世紀前のモノクローム写真から、色鮮やかな現代に飛び出してきたかのようだ。
少し長めの髪、鋭い視線、知性と皮肉を宿した口元。
その存在感は、このクラシック空間に、レトロ時代の記憶を呼び起こした。
彼は、ユキの姿と、その傍(かたわ)らの
「星の紙」に、強い力を感じて引き寄せられ、ここに辿り着いたのだ。
そして、何かを探すように視線を彷徨(さまよ)わせると、テーブルの前に立ち尽くした。
記憶は無い。だが、魂は覚えている。
彼の中に眠る何かが、この「平和を願う装置」に対し、理屈抜きの肯定的な感情を抱かせた。
「…なぜだかわからない。 」彼は、静かに呟いた。
「だが、この星の紙は、誰かの悲しい願いを受け止めているようだ。」
悲しい願い。それは、彼が死ぬ前に世界に向けて発し続けた、尽きることのない渇望に酷似していた。
ユキは、この彼の反応に、運命的な必然を確信した。
彼は、自らの魂の片割れが生み出すアートの真髄に、本能的に触れたのだ。
ユキは、彼の深く強い目を見つめ、静かに言った。
「そうよ。あなたは、自分自身を埋め尽くしている悲しみと願いを、この場所で見つけ出したのよ。そして、この星に宿る願いは、あなたが誰であるかを証明する、一つの鍵よ。」
彼は、ユキの強く惹きつける顔と、そのカリスマ性に魅了された。
ユキの存在は、彼の不安を払拭し安心感をもたらした。
「...悲しい願い、か。」
彼は、静かに息を吐いた。それは、諦めではなく、運命を受け入れた者の、皮肉を込めた息遣いだった。
ユキは、その笑みを見て、そっと手を差し出した。
「あなたの真実が、私を引き寄せたのよ。あなたの名前を教えてくれる?」
「私は、ユキ、ユキ・オザワよ」
【名前と「才能」の目覚め】
彼はユキの手に触れ、自分の名前を名乗る。
「テオ・チャールズ。…テオ・チャールズだ」
「テオ・チャールズ。」ユキはその名前を繰り返した。そして、尋ねた。
「テオ。あなたは、外国人に見えるわ。なぜ、そんなに完璧な日本語を話すの?」
テオは、その質問に答えられなかった。
「...分からない。気がついたら、話していた。そして、気がついたら、日本にいた。」
彼の表情には、根源的な孤独が浮かんでいた。
「過去を思い出せないのね。」ユキは頷いた。
ユキは、ふと、このクラシックな空間に置いてある自分の私物に目を向けた。
それは、彼女が時折、気分転換に爪弾つまびくための、古いアコースティックギターだった。
「ギターを弾いてみない?テオ。」ユキは優しく提案した。
「馬鹿げている。私は音楽なんてやったことがない。」
テオは拒絶の姿勢を見せた。彼の表情は、自分が未知の領域に足を踏み入れることへの強い警戒を示していた。
ユキは、その拒絶を予想していたかのように、穏やかに微笑んだ。
「そうね。無理強いはしないわ。」ユキは、母のような眼差しで言った。
「あなたの魂は、悲しみと願いで満ちているわ。それは、言葉にできない音を求めている。でも、あなたが弾きたくないなら、私が弾くから、聴いて頂ける?」
テオは、その予想外の提案に、魅了されユキの顔から目を離すことができなかった。
「…勝手にしろ。」テオは、拗(す)ねた子供のように短く答えた。
ユキは、テーブルに置かれたギターを優雅に抱え込んだ。彼女は軽くチューニングを合わせた後、深呼吸をした。
【 ユキの弾き語り:「Julia」】
ユキの指が弦を弾いた瞬間、サロンを満たしていた空気が一変した。
響いたのは、静かで美しい、柔らかなアルペジオ。それは、テオの知る世界とは全く異なる、内省的で温かいメロディだった。
ユキは、ささやくような声で、歌い始めた。
「Half of what I say is meaningless
But I say it just to reach you, Julia...」
テオの顔から、シニカルな表情が消え去った。彼の瞳は、初めて、警戒や苛立ちではない、純粋な感情を宿した。
「ジュリア…」
テオは、無意識に、その女性の名前を繰り返した。
その名前は、彼の心の奥底に隠された、最も古い孤独な記憶に触れたのだ。
彼の体は、ユキの奏でる音に、微かに揺れ始めた。
曲の後半、ユキが囁きかけるように歌う。
「So I sing a song of love, Julia
Julia, Ocean Child calls me...」
「…オーシャン・チャイルド。 」
テオは、その言葉を聞いた瞬間、全身に電流が走ったような衝撃を受けた。彼は、歌が終わるのを待たず、ユキの顔を凝視した。
Ocean Child。そして、眼前には、「洋子」という名前を連想させる、ユキ・オザワの顔がある。
テオの混乱は、恐怖を超えて運命の確信へと変わった。
彼の瞳は、大きく見開かれ、水面のように揺れている。この女性は、ただ似ているのではない。この曲が指し示す、彼の人生の終わりと始まりのすべてを、体現しているのだ。
曲が終わると、サロンには深い余韻だけが残った。
ユキは静かにギターを置き、テオを見つめた。
テオの顔は、感情の波に洗われた後のように、ひどく穏やかで、同時に途方もない真実に直面し、青ざめていた。
「テオ。」ユキは、優しく呼びかけた。
「…今の曲は、何だ。」
テオは、蚊の鳴くような声で尋ねた。
「なぜ、私はあの曲の全てを、知っているように感じる?そして…なぜ、お前がそれを歌う?」
ユキは、そっとギターをテオの前に差し出した。
「あなたが知っているからよ。テオ。」
ユキは、優しく、しかし確信に満ちた声で言った。
「あなたの魂が、この曲を創ったの。さあ、今度はあなたが、その真実の音を出してみましょう。」
【甦る指先、 魂が知るメロディ】
テオは、目の前に差し出されたギターを見つめた。
その木製のボディは、武器でも道具でもなく、まるで自分の体の一部であるかのように、彼を呼んでいた。
「オーシャン・チャイルド」という言葉が、ユキの顔と、このギターと、そして彼自身の存在の根源を結びつけていた。
テオは、震える手でギターを掴み取った。
「…私が、創った、だと?」
テオは、自分の現実と、ユキが示す途方もない真実の間で葛藤していた。
「ふざけるな。私は、テオ・チャールズだ。」
しかし、彼の言葉とは裏腹に、彼の指先は、まるで何十年もその時を待っていたかのように、自然に動き始めた。
テオは、ユキが教えるまでもなく、ギターを正しい位置に抱え、親指でネックの裏を支えた。その構えは、熟練したギタリストの、長年の癖そのものだった。
ユキは、息を殺して見守った。彼女の心臓は、早鐘のように打っている。
テオの左指が、迷いなく弦の上のある場所を押さえた。
そして、右手の人差し指が、そっと弦を爪弾くと、柔らかな響きがサロンに満ち溢れた。
響いたのは、ユキの歌った「Julia」と同じ、静かで優しい最初のコードだった。
それは、ユキが弾いた音よりも、深い感情と、懐かしさの響きを持っていた。テオ自身が、
一番驚いていた。
「な…ぜだ?」
テオは、自分の手から出た音を信じられないという表情で、左指を見つめた。
しかし、指は止まらない。
彼の左指は、次に続くコードを、脳の指示を待たずに知っていた。
指が滑らかに動き、一本一本、正確に弦を捉える。
テオの右指は、自然にアルペジオのリズムを刻み始め、「Julia」のメロディが、まるで遠い記憶の再現のように、サロンに静かに流れ出した。
その演奏は、技巧を超えて、感情そのものを
包み隠さず放出するものだった。
彼の指は、和音の響きを正確に把握し、強弱をつけ、ユキが弾いた時よりも、遥かに深く、豊かな音色を生み出した。
ユキは、涙が零れそうになるのを堪えながら、彼を見つめた。
テオは、無我夢中で弾き続けた。彼は、自分の体が自分のものではないような、陶酔的な感覚に包まれていた。
やがて、「Julia」の優しいメロディが終息すると、彼は息を整え、ギターを抱えたまま、茫然ぼうぜんとユキを見つめた。
彼の目には、驚愕と困惑、そして覚醒の光が混ざり合っていた。
「ユキ…。 」テオは、かすれた声で言った。
「今のは…何だ?私は、何も考えていない。だが、指が自然に、あの曲を演奏した。」
ユキは、静かに立ち上がり、テオの目の高さで優しく言った。
「テオ。おめでとう。」
ユキは、歴史的な真実を伝えるように言った。
「あなたの魂は、あなたの記憶よりも、ずっと正直よ。あなたは、音楽の天才なの。そして、あなたの中には…世界を愛した、偉大な男の心が宿っている。」
【 拒絶と探求の始まり】
テオは、その言葉を聞いた瞬間、反射的に激しい苛立ちを露わにした。
「やめろ!」
テオは叫び、ギターを乱暴に床に置いた。
その音は、優雅なサロンに響き渡った。
「偉大な男?そんな馬鹿げたファンタジーで、私を嘲笑うな。私はテオ・チャールズだ。音楽に興味のない、ただの人間だ。」
テオは、ユキに背を向け、サロンの扉に向かった。彼の本能は、「ジョン・レノン」という途方もない運命から、逃げ出せと叫んでいた。
「逃げるのね、テオ。」
ユキの声は、静かで、しかしテオの足を止めるのには十分だった。
「その才能から。その真実から。」
テオは扉の前で立ち止まった。彼は振り返らず、背中でユキに答えた。
「これは逃亡ではない。現実への帰還だ。お前は、このくだらない奇跡を信じているのか?私がお前が言うような男だとして、何の得がある?私には記憶がない。過去も、未来もない。」
「過去は、私が教えるわ。」
ユキは、一歩も動かずに言った。
「私は、あなたが誰であるかを知っている。そして、あなたの過去のパートナーにそっくりよ。」
テオは、そこでようやく、皮肉を込めた笑いを漏らした。ジョン・レノン特有の、諦めと挑戦が混ざったような笑いだった。
「…ふん。そうか。過去の亡霊にお膳立てしてもらうわけか。」
テオは、再びユキに向き直った。彼の表情は、激しい拒絶の裏で、真実への強い好奇心が燃えていることを示していた。
「いいだろう、ユキ・オザワ。私に証明してみろ。この指が覚えている愚かなメロディが、本当に世界を変えたと。」
テオは、扉の敷居しきいを跨またいだところで、ユキに命令するように言った。
「私にギターを教えろ。この忌々(いまいま)しい才能の正体を、私が暴いてやる。ただし、私が生まれ変わりだなんて、口が裂けても認めないからな。」
テオは、ユキの返事を待たずに、サロンから出て行った。
ユキは、テオが置いていったギターを静かに拾い上げた。
彼女の顔には、悲しみはなかった。あるのは、「ついに始まった」という、芸術家としての確信と、パートナーとしての愛情に満ちた、強い笑みだけだった。
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