角度のある海
仰波進
短編小説 角度のある海
海辺の小さなホテルのロビーで、
わたしは彼女と話した。
窓は大きく、海はぬめっと青かった。
「弱いからそんなことに頼るんだって…」
と彼女は言った。
水平線はずっとまっすぐで、
その“まっすぐ”が、むしろ不気味だった。
──まっすぐなものほど、動かない。
それ自体は、強さの証明にはならない。
わたしは、冷めかけたコーヒーをひと口飲んだ。
苦いだけで、味は薄かった。
「強さってね」
とわたしは、窓ガラスの手垢を指でなぞりながら言った。
「完璧になることじゃなくて、
今日のどこか一箇所に“角度”を持つことよ」
角度。
1°でもいい。
ハンドルの1°、言い方の1°、息の入れ方の1°。
それだけで進路は変わる。
海も、太陽の入射角が1°変わると色が変わる。
それを知らないと
“まっすぐでいること”を
強さだと、誤解する。
波がひとつ、砕けて
白い泡が黒い岩に残った。
彼女はまだ黙っていたが
目の奥が、少しだけ明るい。
わたしは紙ナプキンに一行だけ書いた。
今日、会話のどこかに1°を入れること。
ナプキンを見下ろした彼女の口の端だけ、ほんのすこし上がった。
外では灯台がゆっくり回っていた。
角度が変わるたびに
闇の中の海の面が、違う形に光った。
角度のある海 仰波進 @aobasin
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