雪の記憶
知世
第1話 白の書簡
雪が降り始めたのは、放課後の鐘が鳴り終わる頃だった。灰色の空から、音もなく、白い欠片が落ちてくる。冬の海辺の街。その静寂は、まるで時間ごと世界が息を潜めているかのようだった。
湊は、駅前の小さな坂道を登っていた。手には、一通の封筒。宛名のない手紙。それは、彼の手の中で震えていた。寒さのせいではなく、ためらいのせいで。
「……本当に、叶うのかよ。」
独り言のように呟いて、息が白く消える。噂は、誰からともなく広まった。宛名のない手紙を、雪の降る夜に旧市庁舎前のポストへ入れると、願いが叶う。ただし、代償として大切な記憶をひとつ失う。嘘だろう、と思っていた。でも、信じたいと思ってしまった。彼女がいなくなった今でも、何かを残せる気がしたから。
彼女、美月が最後に言った言葉を、湊は覚えている。
「音はね。きっと誰かの想いが形を変えたものなんだよ。」
その声も、もうどんな響きだったか曖昧になりつつあった。音楽室の窓越しに笑っていた横顔。白い息を吐きながら鍵盤を叩く指。冬の光に溶けていくその姿を、何度も夢に見た。けれど、もう彼女はいない。
ポストは街の外れ、旧市庁舎の前にある。赤い塗装は剥がれ、雪に覆われていた。まるで誰かが、そこに祈りを封じ込めたまま、時を止めたようだった。湊は深く息を吸い、震える手で封筒を滑り込ませた。『美月の夢が、どうか叶いますように。』たった一行の文字。それが雪に包まれ、消えていく。風が吹いた。街灯の光に、雪が舞った。その中に、淡い影が立っていた。
「……手紙、出したの?」
振り返ると、そこに少女がいた。白いマフラー、薄い青のコート。髪に雪を溶かしながら、静かに立っていた。
「そんな噂、信じるんだね。」
「信じてないさ。ただ、試してみたかっただけ。」
「ふうん。」
少女は小さく笑って、空を見上げた。
「この街の雪、好き。 まるで、誰かの想いが落ちてきてるみたいだから。」
湊は何も言えなかった。その言葉が、胸のどこかに痛いほど響いた。
「……君は?」
「わたし?」
少女は首を傾げた。
「わたしも、手紙を出したことがあるの。ずっと昔に。」
「願いは、叶ったのか?」
「うん。」
彼女は微笑んだ。その笑顔は、どこか懐かしい色をしていた。
「でもね、そのあと、大切なものをひとつ、思い出せなくなった。」
雪が、二人の間に落ちていた。街灯が滲む。遠くの海鳴りが聞こえる。名前を聞こうとしたその瞬間、風が吹いた。マフラーが舞い、声が雪の音にかき消された。そして、少女の姿はもういなかった。
湊は、ただ一人、白い世界に立ち尽くしていた。足元の雪に、封筒の端が少しだけ覗いている。さっき確かに入れたはずの、宛名のない手紙。それはもう、誰の手にも届かない。ただ、雪だけがその想いを包み、静かに降り続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます