ねえ、お兄ちゃん。一緒に沈んでくれますか。
狂う!
第零章:泡に還る話
人魚の話を最初に聞いたのは、まだ小学生のころだったと思う。
絵本の棚の隅に挟まっていた、色あせた薄い一冊。表紙には青い海と、尾を翻す女の子の姿が描かれていて、幼い俺にはそれがやけに美しく、そして少しだけ怖く見えた。
「人魚はね、好きになった人間を海に連れていこうとするんだよ」
母がそう笑っていたのを覚えている。
幸せそうな顔をしていたのか、悲しそうだったのか、記憶は曖昧だ。
けれど、その一言が妙に頭に残っていた。
愛するがゆえに、相手を自分の世界に閉じ込めようとする存在。
純粋で、残酷で、儚い──そんなイメージが、俺の中で人魚に結びついていった。
その頃の俺は、水が苦手だった。
小学校のプールの授業で、友達に潜らされて溺れかけたことがある。
水面に顔を押しつけられ、息が吸えず、肺が焼けるように痛かった。
大人が飛び込んで助けてくれなければ、今ごろどうなっていたか分からない。
だから俺にとって水はずっと「危険」の象徴で、プールや海に近づくのはあまり好きではなかった。
けれど中学に入ってから、事情が変わった。
両親の勧めでスイミングスクールに通わされ、嫌々ながらも泳げるようになった。
水に慣れていくにつれて、恐怖は次第に消えた。
高校生になるころには、むしろ「泳げないやつに教えてやれる」側になっていた。
夏休みのバイトを探したとき、自然に目に留まったのが地元のスイミングスクールだった。
俺は要領がいいほうではない。
勉強もそこそこ、スポーツも中くらい。目立つこともなく、ひとりで黙々と作業するのが性に合っていた。
そんな俺でも、プールサイドに立って、子どもたちに声をかけるのは悪くなかった。
自分が一度は苦しんだ水の怖さを知っているからこそ、できることがある──そんなふうに思えた。
だからこそ、「溺れる」という出来事には敏感だった。
どんなに小さな水しぶきも、どんなに短い沈黙も、心臓が跳ね上がるように反応してしまう。
あの肺の痛みを思い出すから。人を見ているつもりが、いつも過去の自分を見ていたのかもしれない。
その視線の先に、やがてひとりの少女が現れることになる。
けれど、その前に。俺はもっと早い段階で、兆しを聞いていたのだ。
中学時代の友人が「この町の海では、人魚を見た人がいる」と言っていた。
酔っ払いの与太話みたいに笑って流したが、妙に具体的だった。
『海に立ってた。白い足首から下が見えなくて、波に溶けていくみたいだった』
──そんな話。もちろん信じはしなかったが、俺の頭の片隅には「人魚=海に誘う存在」というイメージが強く刻まれていた。
そうした土台があったから、あの日、プールで少女を見たとき。助け上げた腕に触れた冷たい感触は、俺の記憶の中にある「人魚」の残像と不気味なほど重なったのだと思う。
けれど、それはまだ先のこと。今はただ、俺自身の物語を整理している段階だ。
水が怖くて、やがて克服して、教える立場になったこと。
そして、人魚の逸話を妙に信じてしまう自分がいること。
【人魚は、好きになった相手を海に引きずり込む】
そう繰り返し頭に響く言葉が、まだ見ぬ誰かと、これから始まる出来事に、奇妙な影を落としていた。
それは物語の入口に過ぎない。けれど、俺の人生を大きく変える鍵でもあった。
水の匂いの向こうから、確かに誰かが近づいている気がしてならなかった。
それが「セリア」という少女だったと気づくのは、まだ少し先のことになる。
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