22話:戻ってきた日常
僕は未だ猫のままである東雲さんを抱え、傷だらけの足を動かした。
東雲さん、もう大丈夫ですから。すぐに直りますから。
心の中で静かに唱えた。
猫になった東雲さんは、腕の中でこちらの瞳をまじまじと見つめていた。ふわふわの毛並みが、僕の胸元をくすぐる。
……この意思が彼女のものなのか、そうでないのかはわからない。
けれど彼女は、そっと僕の頬を舐めてくれた。
動物の、精一杯の愛情表現だった。
――その瞳に黒木の姿が映らないことだけが、胸をきしませた。
ピンポン。インターホンが鳴り響く。
僕はポケットに入れてあったしわくちゃの紙を握りしめ、住所を確認する。
ばたばたと忙しない足音が近づいてきた。その扉は ほどなくして、軽快な声と共に開かれた。
「はーい。って、キミは……」
ひょろっとした背の高い男性が、僕の目を見つめて訊ねた。
「ああ、七の友達だったよね。あの時、河原で出会った」
あの時、僕が不良と勘違いして殴り飛ばしてしまった、東雲さんのお兄さんだ。
お兄さんは僕に対し、訝しげに告げた。
「そうそう、七……知らない?」
「東雲さんは……三谷の家に泊まるって、言ってました」
適当な嘘をついた。
猫が東雲さんであることを話したって、信じてくれるはずがない。
僕は『それよりも』と付け加え、猫をぐっと胸元に差し出した。
「え?」
「……この猫を、東雲さんの寝床に寝させてあげて下さい。何も……聞かないで下さい」
僕の言葉に、お兄さんは明らかに不審がった様子で首を捻る。
しかし……お兄さんはふっと笑いかけると、暖かな声色で言葉を発した。
「うん、わかった」
「……すみません」
「ありがとうね」
本当に、何も言及しなかった神様のようなお兄さんには頭が上がらない。
勢い良く頭を下げて、僕は走った。目を瞑って、闇の中で声にならない悲鳴をこぼしながら、願い続ける。
――明日には、全部戻っていますように。
――翌日の朝
昨日の疲弊もあってか、僕の体は背中に鉛でも背負っている感覚に見舞われた。
倦怠感もあって、時計を見るも……学校に遅れていることさえどうでもよくなって、特に急ぐことなく準備を進めた。
ああ、そうだった。
鞄は学校に置いているんだった。
正直、学校に行くのも怖かった。
ロキやエールはああ言ったけど、もしも……もしも学校に東雲さんがいなかったら。その時は僕のせいだ。不安が、余計に登校を拒絶させる。
学校へ行こう。変えの綺麗な制服を着込み、僕は家を出た。
――十時
行き道の河原や、街の中。校庭には、誰一人として生徒がいない。
……当然だ。
丁度、一時間目を終えた、休憩を挟む頃に学校へとやってきた。
寝ぼけた目をこすり、怖々としながら教室の戸の前に立つ。
……東雲さん。お願いです――学校に。
ガラガラ。
教室の戸が開いた。
授業を終えて楽しそうに喋る生徒達の注目を一斉に浴びることとなった。そんな中、僕は必死に東雲さんを探す。
――しかし目で探しても、彼女の姿は確認できなかった。
なんで。確かにロキは、彼女は元に戻ると……。
もしかして、東雲さんに何かあったんじゃあ。
「何してんのよ、あんた。そこ、邪魔なんだけど?」
三谷だ。
僕は肩を小突かれ、よろけた勢いで頬を床にぶつけた。
「へっ!? あんた、なに倒れてんのよ……これくらいで」
もはや、三谷の声すら届かずに、おもむろに態勢を変えてぼうっと天を仰ぐ。
――途端、三谷にしては長い髪が僕の顔元に垂れてきた。
「大丈夫!? 薄くんっ!」
叫ばれた、僕の名前。
彼女は僕の背に手を当て、人形のように上体を起こしてくれた。
ああ……彼女、だ。
この声も、心配の仕方も、全部、全部。
――本物だ。
「ダメだよ、じゅんちゃん!」
「はあ、私のせいなわけ?」
「じゅんちゃんが押すから……!」
「ただ、触れただけ! ……足で。大体、七も七よ。あんたはいっつも無防備で――」
本物の、彼女だ!
僕は咄嗟に彼女の手を握り、改めてお辞儀を返した。
ありがとう、ありがとう。彼女に対して、何度も告げる。
「え、えーっと……薄くん?」
東雲さんがわかりやすく困惑した表情を返した。けれど、そんなことどうだっていい。
「ありがとう……東雲さん。学校にいてくれて、帰ってきてくれて」
「あ、あの……?」
「やめなさいよ、この変態ッ!」
ゴッ! 僕の腹部を、三谷が思い切り蹴り飛ばした。
それでも今の僕は晴れやかな気分だった。
東雲さんがいる。この場にいる。
「ありがとう、東雲さんッ!」
「さっきからわけわかんないことばかり言って! 七、こいつに構ってたらバカが移るって!」
「じゅんちゃん、可哀想なこと言わないの!」
懐かしい東雲さんの言葉も、全てを含めて僕は舞い上がっていた。
僕がこのやりとりに感動していると、さらに背後から野太い声が上がる。
「薄、三谷、東雲。お前ら、戸の前で三人してなにを……」
「先生! 聞いて下さい、なんか薄がおかしいんですよ?」
「いつものことだろう。それよりも、今日はお前らに伝えたいことがある。ほら、席に座れ、座れ」
熊に促され、僕達はそれぞれ席についた。
あの熊が、休憩中に何の用だ。
静まり返る教室の中、熊は静かに目を閉じた。あの先生からは考えられないほどしんみりとした表情に、生徒達は一斉に息を吞む。
「あー……なんだ」
熊はその一言を告げると、覚悟ができたようにしっかりと首を縦に振った。
「黒木のことなんだがな、学校をやめることになった」
教室内がざわついた。
僕でさえ熊の言葉に、どきりとしたのだ。なにも知らない生徒達なら尚更、驚くだろう。
熊はぽつりぽつりと会話し始める生徒達を手を叩く動作で制止させ、言葉を続けた。
「あまりに急だったもので、先生もびっくりしている。知らない者の方が多いだろうが、黒木は体が弱い」
熊は生徒達に、黒木が病弱であること。今まで学校に来なかったのは入院していたから、ということ。退院しても学校に姿を見せただけで、教室には出向かなかったこと。
熊の知る真実を包み隠さず言い終えてから、それを踏まえてさらに言葉を足した。
「容態がよくないらしいんだ。とても学校にこられる状態じゃないそうだ。
……と、昨晩、匿名の電話があった」
匿名――?
「先生も悪戯電話かと思った。病院の名前を伝えられただけで、電話主の名前を教えてはくれなかったんだ」
熊は不思議な体験だったと顎をさすりながら言葉を続けた。
僕にはわかる。あの笑い声が、一瞬だけ耳の奥で弾けた気がした。
「それで昨日の夜に黒木のいる病院へ飛んで行った。匿名の情報は本当だった。ナースステーションの看護師に黒木に会えないかと伝えたのだが、会える状態じゃないと断られてな」
……匿名の電話。きっとロキが最後のお世話として、力を使って電話を掛けたのだろう。
結局、黒木は助けられなかった。でも、黒木は黒木の意志でロキの力を断った。
黒木――ごめんな。僕がロキを追わなければ今頃、お前もここにいられたんだよな。
「幸ー」
エールが机の上で僕の顔を仰ぐ。
「これが、奇跡による弊害なのです。ロキの場合、脳を騙してまで体を酷使させていましたから……体が限界を迎えたのですね」
「……もしも、僕がロキを追いかけなかったら、どうなってたのだろう」
「遅かれ早かれ、結果は同じです。幸が気に止む必要はないのですよ」
エールから、僕のせいではないと言われて少しだけ気が楽になった。これ以上、僕にできることはないだろう。
先生は最後に、生徒の皆に目を通して言った。
「もし黒木が、会えるくらい元気になったら……お見舞いに行ってあげてくれ。大切なクラスメイトとして……先生からのお願いだ」
熊は深々と頭を下げて『休憩を取ってすまなかった』とだけ告げた。
僕は改めて心を決めた。黒木が頑張っている。ロキの力に頼らず、病気と闘っている。僕の方がいつまでもうだうだと、言っていられないよな。
黒木。……ロキはお前のおかげで救われたんだ。
――ありがとう。
いつもの、淡々とした日常が流れて家に帰る。
これが僕の平穏だ。
「わんッ」
「のわあああっ!」
「また犬との追いかけっこ、しているのですかー?」
したくてしているんじゃない、この神様!
細い河原の道を、僕は必死で走り抜ける。ヘイムダルの風を切る猛スピードを体験したおかげで、少しだけ足が速くなった気がした。
全身で風を浴びて、周りの建物が線のように後ろへと流れていく。
これなら、これなら逃げ切れるぞ!
やがて黒い建物が五十メートル先に、目についた。
あそこまで逃げ切れることができれば。うん、今の僕にならできる気がする!
エールと出会って、ロキとの激しい戦闘を通して、僕は自分に自信を持てた。
大丈夫。犬よ、今日こそ僕の勝ちだっ!
「もう十メート――」
『ル』言いかけた途端、じゃりっと小石を足の裏ですり潰した音が耳元に響いた。
「ごはっ!」
同時に顔面をコンクリートの敷地にぶつける。僕は思わず意気消沈した。
「あっ、おやつの時間なのですー!」
明るいエールの声が、人を見捨てる悪魔の声に聞こえてならない。ううっ、まったく。
僕はこける運命でも背負わされているのだろうか。
……帰ろう。
ぶつけた顔を上げようとする。しかし、頭部が何者かに抑えられているように動かない。
「あ、はは」
「わんっ」
思わず乾いた笑いで返した。
これが僕の日常。背負わされた運命――か。
「ギャインッ!!」
突如、犬が声を高くして叫んだ。この犬から、初めて吠え声以外の鳴き声を聞いた。
顔を上げて確かめると、いつの間にか犬は走り去り……僕はマンション前にぽつんと残されていた。
膝をついたまま目の前のマンションから視線を逸らし、ぐっと西方向へ向けて動かす。
黒レースのドレスの裾がふわりと揺れて――僕は、息を飲んだ。
少し視線を上に傾ける。
――僕は唖然とした。
「てふふっ、ご機嫌麗しゅう、坊っちゃ……いえ。幸ちゃん?」
……僕の目に映ったのは、浮遊しながら妖艶な笑みを浮かべ、頬杖をついている悪戯神、ロキの姿だった。
――自室。
「なんでロキがいるんだよ!」
「てっふふ。あら、ロキちゃんに会いたくて仕方がなかったんじゃないのー?」
この……悪戯神。
ローテーブルを挟んだ向かい側で、宙に浮いて微笑む悪戯神。
ロキがテーブルを指で軽くたたく。どうやら飲み物を催促しているらしい。
「てふふっ。あのワンちゃん、ちょっと抓っただけで逃げちゃった」
「話を聞けよ……」
仕方なく神の意向に従い、適当なコーヒーパックからコーヒーを抽出する。
まったく、人遣いの荒い神様だ。
淹れたコーヒーを悪戯神の前に置いた。コーヒーカップがコトンと音を立てる。
悪戯神はエールが机の上で食べていたわっとっとを一つ口に放り投げ、コーヒーカップに口をつけた。
「ん……あら、これは中々」
人間界の食べ物を口にして、一人ご満悦な神様。って、そうじゃない。
「ロキ。こんなところにいていいのか?」
「……いいのよ。リスクを話さず、傍にいたわたしが悪いんだもの。憬ちゃんに、別れは告げたわ」
『だからね、もういいの』最後にロキは、静かにささやいた。
コーヒーを一気に胃へと流し込み、ロキはカップをテーブルへと置いた。ふうっと一呼吸を入れた悪戯神は、静かな声色で放った。
「ねえ」
「どうした?」
「今日からわたしも、お邪魔するから」
「ああ……――えっ」
僕は必死に首を横に振った。危うく納得するところだったじゃないか!
ロキは浮遊しながら接近し、炎のように赤く揺らめく瞳を僕に合わせると――。
「てふふっ!」
いつもの戯けた笑みで僕を圧倒させた。
「エールも了承してくれたのよ。わたしもこの家に住んでいいよって」
「……おい、エール」
わっとっとを頬張るエールは、喉に物を詰まらせた。
「っんぐ、けほけほっ。はうう、喉がイガイガするのですー」
「エール」
「はわわ、幸、お顔が怖いのです……よ?」
――『なんでお前が了承するんだよおおッ!!』
――『ぎゃぴいいっ!』
近所迷惑に成り得るほどの怒号が部屋全体に広がった。エールめ、僕の家を自分の家と勘違いしているな!?
今すぐ引っ捕らえて、説教してやる!
逃げ回る羽虫を、部屋を駆けて追いかける。いたる物が倒れ、その度に耳をつんざく轟音を奏で僕の部屋をより一層、騒がしく仕立て上げた。
風呂の中を、トイレの中を、キッチンの回りを、まったく距離の縮まらないプチ運動会が繰り広げられる。
この野郎……、逃げ足だけは一人前だなっ!
「てふふっ。騒がしい……けど、この状況も悪くないわね。これからよろしくね、エール。幸ちゃん」
――僕にまた、不幸なことが一つ増えた。
けど、今なら思う。
この不幸も……悪くないな。
カーテン越しの風が、少しだけ甘く吹いた。
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