20話:度を越えた悪戯 4
――天庭。
聳り立つ柱に囲まれた神々しい雰囲気を放つ場所。
ここは神に作られし存在――神の証を持つ者『エール』が住まう建造物。
「エール。調子はいかがでしょうか?」
「わー! フレイヤ様なのですー!」
「いつでも出番良好なのです! ご指示を下さいっなのですー!」
時折、こうして神々が『不具合』を見つけにやってくる。神に作られたエールは、決して神の意には逆らわない。構造がそうなっているのだから。
ただし、それにも例外はある。
「あらぁ……? なんだか一匹、足りないような気がするけど……気のせいかしら?」
肩から腰丈まで掛けられた長い絹の布を翻し、頬に手を当て首を捻った。
女神フレイヤ――その端正な顔立ちや穏やかな立ち振る舞いは、ただそこにいるだけで周りに癒しを与えてしまう。
その笑顔は神だけでなく多くの種族を虜にする、愛を司る女神である。
エール達はフレイヤに群がり、各々が元気よく手を上げていた。“わたし”が場に現れるまでは。
瞬間、エール達は女神の声を掻き消すように一斉に叫び始める。
「わわ、ロキなのですーっ!」
「絡まれるとひじょーに厄介なのですー!」
エール達は神に使役される存在。
だからこそ、秩序を乱す者を本能で避ける。
「あらま。エール達、そんなに慌てなくても大丈夫よー」
『相変わらず人をバカにしたようなおっとり具合ね』
突き刺すような冷たい言葉が、エール達を奥の部屋へと追いやった。嫌われるのは日常茶飯事。もう慣れたものだわ。
フレイヤはわたしを見つけると、一礼した。にっこりとこちらに眩しいばかりの笑顔を向けてくる。
「ロキちゃん、だったわね。私に会いにきてくれたのねー」
「ええ、フレイヤ様。こんにちは」
「はぁい、こんにちはー」
手を上げてお上品に微笑んだ。
まったく、この女神様と一緒にいたら、調子狂うわ。
……今日わざわざ女神様に会いにきた理由は他でもない。
「わたし、人間界に出向こうと思うの」
「まあっ」
わざとなのか、そうじゃないのか。女神様は両手を口元に当てて、激しく驚いた。
「それも良い経験かもしれないわねー。けれど、また――どうして?」
「……理由なんてどうだっていいでしょ」
「眉間にシワ。もっと笑いなさい、そうすれば心が洗われるわー」
心が洗われる……か。女神らしい綺麗事だわ。
バカバカしい回答にうすら笑いを浮かべ、女神様の発言を軽く流す。
「フレイヤ様。その節は申し訳なかったわ」
「ああ、ロキちゃんがわたしの大切な首飾りを泥棒しちゃった時のことねー」
かつて、わたしは悪戯半分にフレイヤの首飾りを盗んだことがあった。
その時に出会ったのがヘイムダル。見張り番の神。遠見と聴覚は桁外れ、過去に首飾りの件でやり合った相手。
あの時は互いに傷つき、激しい戦闘の末……。
ヘイムダルに結局、首飾りを取り返されてしまうし……それはもうひどい有様だったわ。
今も変わらず、互いの命を賭ける仲。
「一つお願いがあるのだけど。ヘイムダルを差し向けないと誓ってくれるかしら」
あんなものが人間界に投下された暁には、わたしを追って血眼になったヘイムダルが人間界を破壊する未来が目に見えている。
そうしてわたしも、今度こそやられて――ヘイムダルも人間に危害を加えた罪で粛清対象になって。ホント、誰も得しない。
フレイヤは一呼吸を置いて、返答した。
「……この首飾りが手元に戻ってきたんだもの。もう怒りに揺らぐ必要はないわー」
『それならよかった』
私も胸を撫で下ろし、女神様に告げた。
「ロキちゃん。くれぐれも生命を脅かすような悪さを仕掛けちゃダメよー? 粛清、されちゃうからぁ」
「これで清々して人間界へ赴けるわ。ありがと」
「……もう、戻ってこないの?」
こんな時だけ、悲しそうな顔を作った。いつもはわたしのことなんて気にも留めないくせに……だから嫌いなのよ。
「どこかへ派遣されたエールに見つかるまではね」
「そうなの。残念ねー、また会える時を楽しみにしているわー」
本当にそう思っているのかしら。
女神様は微笑んで、小刻みに手を振った。その笑顔に何の意味が込められているのかはわからない。
だから私は、こう罵ってやった。
「さようなら、あなたの笑顔が人間を破滅に追いやらないよう祈っているわ」
「忠告、ありがとー」
女神様の眉がぴくりと動く。別れの挨拶は、ピリついた空気の中で静かに終わりを告げた。
フレイヤは去っていくわたしの姿を、ずっと見守っていた。その視線が逆に不気味で、哀れむような視線がじっとりと、気持ち悪く付き纏う。
身が壊れるその間際まで……。
――もう二度と、戻ってやんないわよ。こんな場所なんて。
フレイヤへ向けて、心の中で呟いた。
――人間界。
「……天庭の方が、よほど空気が澄んでいて綺麗だわ」
がっくりと肩を落とした。ああ……あんな場所にいるのも嫌悪でしかないけれど、気分が乗らないという点では、人間界もさほど、変わらない。
視界が闇に支配される頃合い。真っ暗の中で目についたのは、轟音を立てながら、鉄の塊が地面を滑るように走る姿だった。
暗闇を照らす、ちかちかと夜陰に浮かぶランプ。天庭より澄んだ空気なんて、どこにもない。
天庭では考えられないほど煩わしい人々の喧騒。
どこか静かになれるところは、ないかしら。
その後、時間を掛けてふよふよと浮遊しながら、落ち着ける場所を求め彷徨い続けた。
壁をすり抜けて白い建物の中へ。消毒液の匂いが鋭く刺す。
人間達はこんな時間帯でも活動するんだ、と感嘆する。周りの人間は、忙しそうに部屋を出たり入ったり。
誰かが誰かの世話に勤しんでいた。
聞いたことある。ここは体を弱くした人間が、誰かに世話を求めて就寝する場所だって。
えっと――確か、病院って言う場所だったかしら。
神を信仰する者が減っていく世の中で、神に祈りを捧げている人が多いって話。実際にわたしが願いに直面したわけじゃないけど、天庭で誰かが話してくれたことは覚えている。
そうね、こうして目の当たりにしたら……嘘だとは言えないもの。
「けほッ、ごほっ――」
「――ちゃん!! 大丈夫、息を吸って……吐いて」
小さな女の子が、苦しそうに咳き込んだ。その子の背中を軽く摩りながら指示を出す、一人の女性。
「看護婦さん、私の病気は……いつ治るの?」
「大丈夫よ。きっと……大丈夫だから」
「神様、どうかお助け下さい。まだ、生きていたいよ……」
顔を手の平で覆い隠し、少女はしくしくと悲しみに暮れる。これが俗に言う神頼み、か。
わたしに縁はないけど、神は万人をお救いにならないわよ。勝手に都合よく解釈した人間が、神に縋っているだけ。
神によって性格は様々だけど……神に選ばれなかった人間は切り捨てられる運命にあるのよ。
哀れね――。
「大丈夫。きっと神様は聞き入れてくれるから。頑張って病気と闘っている人を見捨てる神様はいないって信じているもの。
だから、諦めちゃダメ。ねっ?」
「はい……」
でも、それが生きる気力になるのなら、それでもいいのかもしれない。
まあ……わたしだって死を恐れない人間の方が余程、怖いと思う。死を恐れてこその人間、偉大な者に縋りたい気持ちはわかるもの。
「ねえねえ、聞いた?」
「うん。うちでは見切れないから、小さな病院に移動してもらうって話だよね?」
「そーそー」
ふと、近くで妙な話が聞こえてきた。
先程、看護婦と呼ばれていた人間と同じ衣服を着た女性二人が、病院の一室から少し離れて、会話する。
この人達は暇なのかしら。自分の仕事を成し遂げないまま喋り続けて、呆れ顔でじっと女性二人を見つめる。
すると、テンションが高めの女性は辺りを警戒し、ひそひそと大人しめの女性に告げた。
「あの子、親いないんでしょ?」
「体が弱いから、アルバイトもできないんだってね」
「そーなの」
体が弱い……可哀想な人間もいたもんだわ。
人間が生き延びるためには、ありとあらゆる物事にお金という概念が必要なんでしょう?
それが無ければ、人間は死を待つのみ。
ロキちゃんに頭を下げて懇願でもしてくれたら、少し助けてあげようかしら。
人間観察のつもりで目の前の二人の会話をじっと聞く。
すると、だんだんとその会話が非道なものになっていく場面に居合わせてしまった。
「うちはお金も払えないような人を世話できるほど、暇じゃないのよねえ」
その一言で十分よ。ありがとう。
わたしは人差し指を上に向け、近くの部屋に置いてあった電話に念を込める。
「何も喋らないから余計に怖いのよ、あの子……」
プルルル――ナースステーションの電話が鳴る。ついでに悪口の断片も受話器へ。
すぐに上司が足音荒く現れ、眉を吊り上げた。
「そこ、喋っている暇があるのなら仕事をしなさいッ!!」
突然の怒号にびくっと肩を竦めて、女性達はそそくさに立ち去った。
立ち去る間もぐだぐだと叱られていて、叱られた子達は半泣き状態……いい気味だわ、と嘲笑った。
それにしても、ここまで陰口がたたけるのは凄いと思う。
見えない場所で醜い言葉を並べ、表ではへらへらと笑う。
本当――目も当てられないくらい醜いわ。
私はゆっくりと室内の入り口に歩み寄り、壁に貼り付けられたネームプレートをじっと確認する。
『黒木憬』
プレートにはそう書かれていた。
一体、どんな人間なのかしら?
わたしは興味本位で室内に侵入を果たす。
白い壁をすり抜けて、きょろりと辺りを見回した。
中はとてもシンプルな構造となっていて、奥には病院の庭が見渡せるくらい大きな窓が一つ。
純白のベッドには、ほっそりとした青年が、何かに囚われたように一点を見つめていた。
質が良くないぼそぼそとした黒い髪、とても栄養を採っているとは言い難い血色の悪い素肌。
その青年は制服とやらを着込んでいた。
青年が何を見ているのか……確認のために、青年の方向へ目を細めて見続ける。
しかし、外には目を奪うようなものなど一つもない。
変な人間。わたしは一呼吸を置いて、青年の肩にタッチする。
これで青年も、わたしの姿を認識することができる。
「てふふっ、人間さん、こんにちは」
手始めに、微笑を浮かべて挨拶を交わす。けれど――。
「……」
「あら? なにか反応を示してくれてもいいじゃない。もしかして、そんなにロキちゃんが、ため息が出るほど美しいのかしら? てふふふっ」
わざと小バカにするよう繕っても、目の前の青年は微動だにしない。
――つまんない。
わたしは一瞬でしらけた。見えないものが見えているの。発狂してもいいレベルなのよ?
それなのにこの子は、わたしの目をじっと見据えて……ただ一言、口を開いた。
「……死神、なのか」
「へ?」
あら、失礼。とっても無礼ね!
ロキちゃんを、魂狩りしか眼中にないあんな陰湿な連中と一緒にするなんて。
そう言い放ってやりたかったけれど、抑え気味に静かに告げる。
「そうね、あなたが望むのなら……あなただけの死神になってあげてもいいわよ。てふふふっ」
青年の興味を引く為に戯けた態度で返してみる。しかし彼は口角を上げず、再び視線を窓の外に移した。
「一体、ロキちゃんより何に夢中になっているの?」
窓の外は誰もいない病院の庭と、街灯の光だけ。本当、あの陰口はあながち間違っていなかった。
「窓の外」
「確かに綺麗だけどね。それよりも先に驚くべき光景が目の前にあるでしょう」
「――もし俺の体が普通だったら」
青年の目に生気はない。
確かに困っている目の前の青年の前で、わたしは近くの丸イスに腰を掛けた。
とても笑っている場合ではなかった。彼のひどく凍えた瞳はわたしを真剣にさせる。
実際に彼が声に出して言ったわけじゃないけど。ああ……そんな目をされたら、助けてあげたくなるじゃない。
「ねえ、もしも普通の体になれたのなら。あなたはどうしたい?」
沈黙。
窓の外の暗がりが、彼の喉を固くする。
やがて、夜に紛れるほどの声が二人だけの空間に沈む。
「学校に行きたい」
それは、切なる願いだった。
「学校?」
そんなのでいいの? なんて聞き返してしまいそうになる口を閉じる。
あまりに純粋な答えすぎて、呆気にとられたのだ。
もっと欲深でみっともない願望を押しつけてくるかと思ったのに……。
でも、気に入った。
「てふふっ。わかったわ」
「……?」
ひとりでに頷くわたしを、訝しげに見つめる青年。この子の真面目さを見ていると、こんなわたしでも役に立ちたいって思えてくる。
悪戯神として、この気の毒な青年を救ってあげる。
「あなたの体を治してあげるわ」
「そんなこと……」
できるわけがない。恐らくそう言いたいのだろう。青年はわたしを前に顔を伏せた。
もちろん、わたしにそんな素晴らしい力なんてない。わたしが得意とするのは、自身の変身……他人の姿を変える力、人間にとっては超常現象であろう悪戯を起こすこと。人を騙すことだってできる。奇跡を起こすには、どれもほど遠い。
だからね。“悪戯で脳を騙してあげる”
「完全じゃない。けど――"行ける"程度には、脳を騙してあげる」
「……っ」
「どう、かしら?」
うつむく青年の顔を覗き込み、真剣な眼差しで問う。これが欲深い者なら、神が力を授けるという絶好のチャンス……断るなんて万に一つあり得ないだろう。けれど、彼は違った。
果たして私の甘い提案を簡単に受け入れてくれるだろうか。
彼から返ってきた答えは、わたしの予想でも模範通りでもない懸念の声だった。
「心配、なんだ」
「心配?」
「俺は――」
何かを言いだそうと、ぎゅっと目をつぶって握り拳を膝の上で作った。血の気が感じられないほど白い手を、わたしの手のひらで包む。
今に消えてしまいそうな、はかない青年の言葉をわたしは否定しない。誰が否定しようとも、わたしはあなたの味方だわ。
だから声にして。穏やかにそう言った。
青年はわたしの言葉にどう思ってくれたのだろう。一つ頷いて、恐る恐る声を上げた。
「時折、不安になるんだ。誰からも存在を忘れ去られて、誰もいない世界で生きていくのかなって」
「きっと……大丈夫よ」
「今までも入退院を繰り返しながら、なんとか通っていた。でも、教室にすら行けないこともあった」
彼はこう続けた。
先生の気遣いが時々、苦しくなると。他の生徒の目が、否定的な視線に感じると。
自分が通うことで先生に迷惑を被ってないか? すぐに体調を崩してしまう自分のことを陰でどう思っているだろうか。
――学校には通いたい。けど周りの視線が怖い。
過敏すぎる。第一に思い浮かんだ言葉は、それだった。
残念ながら他人の視線を変えることなんて、わたしにはできない。ただ、それならば答えはいたって単純である。
「言ったでしょう、わたしはあなたの味方よ」
腕を組んでイスから立ち上がると、軽く浮遊してみせた。目の前で超常現象が起きているのにかかわらず、やはり彼は感情を見せてはくれない。
……今はそれでもいいわ。
「何があっても、わたしが護るわ」
「……でも」
「イジメ? わたしの力で逆にイジメてあげる。陰口? 目に見えない力で震え上がらせてあげる。
気分が悪い? 大丈夫――わたしが傍にいるから」
『ねえ、憬ちゃん』
プレートに書かれてあった名前を呼んでみる。彼はわたしが名前を知っていることにまず驚いたのか、目を見開いた。
「だから、わたしを信じてちょうだい」
憬ちゃんは身を震わせながら頷いた。
再び数分の沈黙が流れ、わたしから何かを発そうと思った時。
初めて……彼からわたしの顔を見てくれた。きれいな黒目で、わたしの姿を映す。
その目は出会った直後の虚ろの瞳ではなく、わたしを信頼してくれたような力強い眼差しだった。
『……助けてあげたい』
そんな感情、もう捨てたはずなのに。
「……わたしって、バカね。てふ」
そう、彼に聞こえないように呟いた。
「名前、は」
「わたしの?」
こくり。彼が強く首を縦に振る。
「そういえば、まだだったわね。てふふっ」
――わたしはロキ。悪戯の神様。悪戯こそがわたしの神髄……覚えておいてね。てふふふ。
これからよろしくね、憬ちゃん。
――汚れた空気のはずなのに、わたしを見つめる彼の目だけは澄んでいた。
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