8話:団らんさえあればいい 後編
――土砂降りの午後。
火を鎮めた神の豪雨は、降り止むことを知らずに街を洗い流していた。
服はびしょ濡れ。僕は慌てて近くの八百屋の軒下へ逃げ込む。
「……はあ、もうびっしょびしょ」
「ぶるぶるっ。仕方ありませんよ、火事を止めたのですから! 人の命を救ったと思えば、濡れるくらいどうってことないのです!」
エールは胸を張って誇らしげに言いながら、犬みたいに体を振って水を飛ばしてくる。
おい、その飛沫全部、僕に当たってるぞ!?
「……へっくち」
「風邪を引いちゃったのですか?」
「あぁ、寒気がしてきた」
「むぅ……」
まさか神能人離が、使う場所によっては自分にもダメージを及ぼすとは思わなかった。
早く帰って温まりたい――それだけが、今の望みだ。
「……雨、収まりませんね」
「普通、能力が切れたら止むんじゃないの?」
「仕方ないのです。オルドラさまの咆哮は、一度降らせたら後は気まぐれなのですよ」
「うぅ、寒い……」
それから一時間、八百屋の屋根の下で雨を眺め続けた。
雨特有の湿った匂いが鼻をくすぐる。憂鬱なはずなのに、どこか静かな心地もあった。
「風も冷たくなってきましたねー」
「オルドラ……恐ろしい力だ」
「神の力を授かるというのは、そういうことなのです」
エールはぽつりと沈むように言った。
憑依した神にすべての権限がある――その意味を、今日ようやく理解した気がする。
もし水神龍の機嫌を損ねていたら……。想像するだけで、背筋が冷えた。
――その時。
『薄くん!』
『おにーちゃーん!』
少し遠くから、聞き慣れた声がした。
顔を上げると、傘をさした美咲と東雲さんがこちらに駆けてくる。
「薄くん、大丈夫?」
「お兄ちゃん、はいっ傘だよ!」
美咲がにんまり笑って傘を差し出す。
どうしてここが――?
「よくここがわかったね、二人とも」
寒さと嬉しさが混じって、声が震えた。
「うんっ! だって――」
美咲はにこにこしながら携帯を取り出し、画面を見せる。
「GPSで繋がってるからね! これでお兄ちゃんの居場所はバッチリだよ!」
「なんでだよッ⁉」
恐怖と感動が半々で胸を打つ。
「ふふっ、兄妹して仲が良いのね」
「えへへ、七さんに褒められちゃった!」
仲が良いんじゃない、東雲さん。
監視されてるんだ。どうか褒めないで……!
「お兄ちゃん、とにかくお家に帰ろうよ!」
美咲が差し出す手は、小さいけれど温かい。
その隣で東雲さんが優しく微笑んだ。
「美咲ちゃんね、お兄ちゃんのために頑張ってたの。『元気でいてほしい』って言いながら、ずっと料理を練習してたのよ」
「七さん! そ、それは言わない約束だよう!」
「ふふ、ごめんなさい。でもね、兄妹の思いやりがすごくて……感動しちゃった」
「う、うん……ありがと、七さん」
その光景が、胸の奥をじんわりと温めていく。
当たり前のようで、ずっと忘れていたこと。――僕は、ひとりじゃなかったんだ。
三人で傘を寄せ合いながら、ゆっくりと帰り道を歩いた。
雨はまだ降り続いていたけれど、不思議と、心は晴れ渡っていた。
忘れていた。美咲が料理を作ったんだった……。
僕にとっての、運命の時がやってきた。
食卓に並んだグリーンサラダ。お皿に敷かれたレタスが野菜たちの舞台となり、きゅうりが脇を固める。その上に、サラダを可愛く彩るアイドル――トマトが赤を添えていた。
「お兄ちゃん、どうぞ!」
「……ぐぬっ」
サラダは余程、下手なことをしない限り変な味にならないだろう。
わかっている。妹が丹誠込めて作った料理なんだ!
……けど、食べる勇気が湧かない。
もし味つけがおかしかったらと思うと……思うとッ。
「幸くん、食べられないの、ですー? 私があーん、してあげますですよー」
「エール……」
羽虫が隣でクネクネと動きながら、食べるようにと煽ってくる。
お願いだから声を掛けるな。今一人で喋ったら確実に、美咲達に変な目で見られてしまう。
「お兄ちゃん、何か言った?」
「い、いやいや何も! あー美咲の料理、美味しそうだなーはっはっは。はいっいただきまーすッ!」
覚悟を決めろ、僕も男だ!
箸でレタスを動かし、きゅうりを挟む。さあ、あと一歩だ。食べろ、東雲さんもすぐ傍で僕の勇士を見ている……ッ!
自分を奮起させ、なんとか口に運ぶ。さあ、もし美味しくなければどこで吐いてやろうか。
そんな風に思っていたけれど、シャキシャキと歯ごたえのあるきゅうりが僕を安心させてくれた。……うん、普通のサラダそのものだ。
少し蜂蜜のような風味がして、ほんのり甘くて美味しい。
「……うまい」
「良かった! お兄ちゃん、これも、これも!」
美咲にしては上出来だ。やっぱりこれも、東雲さん効果なのか……?
次に出された料理は、器に入ったスープ。
黄金色に輝く海に、口に運びやすい具材たちが水面に揺られている。
じゃがいもにウィンナー、どうやらポトフらしい。
こちらは特に問題がなかった。普通に美味しい。美味しすぎてスプーンの手が止まらない!
やっぱり東雲さんだ、頼んで正解だった!
「うん、いけるいける」
「じゃあ最後にこれー!」
美咲が作ったとは思えないほどの上出来な料理に、僕は心を躍らせる。
東雲さんのアドバイスが素晴らしかったことを、今回の件で十二分に理解した。
最後のデザートにと美咲が注いでくれたのは、白い飲み物。
アクセントにミントが乗せられてある。
「またオシャレな飲み物を作ったな」
「うん。ラッシーって言うのよ!」
ラッシー。確か海外のヨーグルトドリンクだったよな。
さすがに飲み物はとてつもない失敗を犯さない限り、大丈夫だろう。
『えっ、いつの間に』と東雲さんの可愛らしい声がかすかに耳に残る。
「あっ……それは」
東雲さんはか細くそう告げる。が、時は既に遅し。
僕は完全に美咲を信頼していた。グラスに口をつけ、豪快にぐびぐびとの飲み干した。
舌にまとわりつく、絶妙に不快な粘り。
火傷しそうなほどの刺激。
そして鼻腔を突き抜ける――劇物の嵐。
「それ、七さんに頼らず私がオリジナルのラッシーを作ったんだー! 凄いでしょー」
「ぶふッ!!」
口の中に変な味わいが広がる。
どんなレシピなのか、ヨーグルトドリンクなのに、ラッシーなのに……全然甘くない!
どころか、塩味とヨーグルト、後からくるヒリヒリと辛い味が襲い、舌がこの高度すぎる味に追いついていけなかった。
「……かはっ」
「あれ? お兄ちゃん? もう、食べてすぐ寝ると豚さんになるんだからね!」
美咲の料理に完全敗北した。毎回思うけど、何を入れたらこうなるんだ……!
そういえば、あの袋に謎のお粥のもとが入っていたけど。今回、雑炊やリゾット、お粥は出ていない。
つまり……?
「美咲、これのレシピを詳しく教えてくれないか」
しばらく起き上がれそうにないので、机に伏せながら、美咲にレシピを問う。
美咲も気に入ってくれたと勘違いしたようで、るんるんと指を折って数え、教えてくれる。
「えっと、ヨーグルトとお砂糖、牛乳をミキサーに入れて」
うん、ここまでは普通だ。まだ驚くな、僕。
「白色を足すためにお粥の元を入れて。料理にはスパイス、つまり刺激が必要って料理本に書いてあったの。だから辛子、わさび、とうがらしを」
「何でそこでお粥が入るかな……⁉」
しかも物理的な刺激⁉
美咲の話を聞きつつエールの方に目を逸らすと、僕の吹き出した物を全面に浴びたのかマイタオルで顔を拭いていた。
「美咲ちゃん、天才なのですー」
エールは一生懸命に体を拭いながら、皮肉めいた言葉をこぼした。
エールにも聞きたいけれど、スプーンやタオルなんて一体どこに仕舞っているんだ、毎回。
「おっと、そうだ。お兄ちゃんも頑張ってくれた二人にお土産。買ってきたよ」
「えー、なになにー?」
「あの有名店のロールケーキ。一緒に食べよう」
「うん、食べる食べる! お兄ちゃん大好きー!」
ロールケーキの箱を見せるや否や、抱きついてくる美咲。
お兄ちゃんっ子と近所に言われる所以だ。まったく、しょうがないやつだな。
雨に濡れたロールケーキの包みを開け、既に切り分けられてあるケーキを個々のお皿に盛っていく。
幸い崩れなかったのが救いだった。ぐちゃぐちゃだったら、きっと東雲さんに笑われてしまったことだろう。
「東雲さんも、どうぞ」
「うん、ありがとう。それじゃあ、いただきます」
美味しい? 料理の後は、ご褒美のロールケーキ。
生地はふんわりと柔らかく、濃厚なクリームが口いっぱいに広がる。
笑い声が重なる食卓で、ゆっくりと甘い時間に溶けていった。
「ふふ、おいしーね!」
「うん。とっても美味しいね。あっ、美咲ちゃんこのイチゴあげるね」
「ほんとー!? ありがとうっ七さんっ!」
楽しそうに会話する美咲と東雲さんを、ぼうっと見つめる。
まるで本当の姉妹のようだ。微笑ましい光景に、心がじんわりと暖かくなった。
「じゃあお兄ちゃん、帰るね」
「お邪魔しました、薄くん。それと、ケーキ。ごちそうさま」
日没。もうすぐ世界も夜に包まれる頃。オルドラの降らせた雨は、なんとか止んでくれていた。
食事の後片付けまでやってくれた東雲さんには頭が上がらない。
美咲はどうやら日帰りで帰るらしく、学校や勉強も忙しいために今度はいつこられるかわからないそうだ。
「私がいないからって、体に悪い生活しちゃダメだからね!」
「わかってるよ」
「その時は、七さん! お兄ちゃんのことをよろしくお願いしますね!」
「こっ……こら! 何を余計なこと!」
我が妹、グッジョブ!
東雲さんは照れ隠しのように微笑んだ。その笑顔が眩しくて、僕は顔を赤ながら思わず視線を外した。
「それじゃあお兄ちゃん、ばいばーい!」
「薄くん、また月曜日。じゃあね」
「うん。ばいばい、美咲、東雲さん」
カタン。賑やかだった空間は、また寂しい空間へと逆戻りした。時計の音が、やけに大きく聞こえた。
とやかく言う者がいなくて、一人暮らしもいいものだけど。なんだかそれはそれで、寂しいな。
「幸、幸ー! もう七さん達は帰りましたよね! わっとっと、ロールケーキ! 食べる、食べたいのですー!」
いた。うちに住み着いた、うるさいのが、一匹。
「はいはい」
こんなに誰かと談笑をしたのは、本当に久しぶりだ。
「ケーキ、ケーキ。わっとっとー!」
エールは机に座りながら足をぱたぱたさせている。
マイフォークを持って上機嫌な様子だ。
僕は小さな神様にお供えするためのケーキとわっとっとの準備をする。
エールと僕の生活は、まだまだこれから。
「はい、お待たせ」
「うわーい! わっとっとーもぐもぐっ。ケーキーもぐもぐっ。んー最高の時間なのですー! 生きててよかったのですー!」
気づけば、僕はまた顔を綻ばせていた。
こんなにちっぽけで、こんなに暢気で、現金で欲深な神様でも――
そこにいてくれるだけで、なぜか安心してしまう自分がいた。
本人には恥ずかしくて言えないけれど、心の中でそっと呟く。
『これからも、よろしくな』
――翌日。
僕が三十八度後半もの熱を出して寝込んでいたという話は、エール以外、誰も知る由はない。
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