――その日の放課後。

　今日という日が終わると、僕は大きく背伸びをした。

　明日は休み。学生にとって何より大事な、大事な休日である。

　これを機に、僕もしっかり休むぞ……！

「っと……」

　――♪♪

　携帯の着信メロディーが鳴り始めた。一体、誰だろう？

　制服のポケットから携帯を取り出す。こ、これは――。

　その電話の主は、僕もよく知る“家族”だった。

　家族の声を聞いて青ざめる人間なんて、世の中そう多くはないだろう。

　とりあえず出ないという選択肢は可哀想なので、震える手で着信マークを押し、恐る恐る携帯を耳に近づけた。

「もしもし……」

　誰が見ても明らかにテンションの低い声でぼそぼそと喋る。

　だが、その沈んだ空気を粉砕するように、電話の向こうの主は持ち前の明るさで僕のハートを粉々にしてきた。

『おっにいちゃーん！　元気だった？　電話で話すのも半年ぶり、会うのは何年ぶりだろうねー！』

「……切るぞ」

『えっ、ちょっと待って！　待ってってば！』

「お兄ちゃんは忙しいの！」

　ああ、今すぐ電源を切りたい。思い出すだけで胃がキリキリする。

「で、何だよ突然？」

　半年ぶりの電話。

　我が妹・美咲（みさき）は、こちらの気苦労などお構いなしに一人で盛り上がっている。

　相変わらず、人の意図を汲み取らないタイプだ……。

　何も聞かずに切るのはさすがに心が痛む……とりあえず理由だけでも聞いてみよう。

『わあ、やっぱりお兄ちゃんって変わってないなぁ！　なんだかんだ、引き受けてくれるところ！』

「ぐ……」

　反論できないのが悔しい……っ！

『お兄ちゃん、お母さんがいなくてもちゃんと美味しいご飯を食べてる？　自炊できないからって、体に悪い生活してない？』

「あーはいはい、お節介ありがとう。ちゃんと食べてるから安心してよ」

『でも心配なの！　お兄ちゃんが体を壊しちゃったら、私……』

「美咲……」

　兄思いの妹をもって、僕は感動した。

　お節介とはいえ、心配してくれているのはありがたい。

　――だが、みなまで言うな。頼むから言うな！

『だから！　お兄ちゃんのご飯係、私にやらせてよ！』

「断るッ‼」

　あんな悲劇、もうごめんだ！

『えーっ、お兄ちゃん、もしかして私に言えない秘密があるの？　だから家に来て欲しくないの？』

「違う。ある意味、それもあるけど……まったくの的外れってことを理解してくれ」

　あぁ、確かに。

　電話中も暇だからと、僕の隣で謎のオリジナルダンスを踊っている羽虫（エール）と生活しているなんて――口が裂けても言えない。

　けれど、原因はそれ以外にもある。胸に手を当てて考えてみろ。

『大丈夫、お兄ちゃん。万が一、私が秘密を知っちゃっても、お母さんやお父さん、近所の人に言いふらさないよ』

「それ絶対に言うパターンだろ！！」

『じゃあ明日！　タクシー使うから、すぐ行けると思う！　あー、早くお兄ちゃんに会いたいなぁーっ！　じゃあねー！』

　ピッ。

　一方的に電話が切られた。

　なんてことだ……美咲に料理を作られてしまった暁には……！

「ど、どうしよう」

「ん？　幸、電話終わったのですか？　誰からですー？　美咲ちゃんって言ってましたね」

「厄介なことになったー！　厄介なことになった……！」

「厄介、です？」

　そうだ、こういう時こそエールの出番だ。

　本当の危機を回避してくれると信じているぞ、神様！

「ねえ」

「うん？」

「料理を美味しく作れるようになる、コックみたいな神様いないの？」

「いるわけないのです！」

「……だよね」

　そんな神様がいたら、僕は毎晩とっくに料理上手になっている。

　はああ……憂鬱だぁ。

　せっかくの休日。天国のような週末が、地獄に染まっていくのが目に見えていた。

「そんな神様はいませんけど、豊穣の神やお水を司る神を降臨させて、美味しい食材を用意することならできますよー」

「いくら食材がよくても、作り手が台無しにしちゃ意味ないだろ……」

「それもそうなのです」

　こうなったら、美咲が無茶をしないように、誰かに“監視役”を頼むしかない！

　僕はそう決意し、片っ端から女子を説得する羽目になった。

　

「ねえねえ、実は――お願いがあるんだけど。うちの妹の料理の先生になってくれない？」

「えっ……ごめん。明日、用事があるんだ。ざっ、残念だなー薄くん、またねー！」

「あ……」

　明らかに用事などなさそうな素振りで走り去っていく彼女。

　僕は遠ざかる背中を茫然と眺めたまま、数分間、突っ立っていた。

　――。

「ねえねえ、妹の料理の先生になってくれない？　お礼はするよ！　何か奢るからさあ！」

「最近、一人で喋ってる危ない人の家に行くのはちょっと……」

「い、言い返せない……！」

　心に刺さるような言葉を告げられ、引いた目を向けられた。

　彼女は僕を見つめたまま後ずさりで立ち去っていく。

　……うっ、ひく。泣いてない、泣いてないぞ。次っ！

　――――。

「ねえね……」

「ごめん、用事が！　さよなら！」

「まだ何も言ってないけど……!?」

　――――――。

「女の子にナンパなのですか？　幸も男の子なのですねー。私に言ってくれたら、なんとかしましたのに！」

「……もうダメだ。僕はこの学校で“変人”という名札を貼られて生きていくんだー！」

　誰もまともに取り合ってくれない状況に、僕は頭を抱えた。

「仕方ないのですよ。人の性格は中々、変わらないのです」

「あたかも元から僕が“ひとりで喋る変人”でしたー、みたいな言い方やめてくれるかなっ!?」

　僕はいよいよ絶望の淵に立たされた。

　もうどうにでもなれ。けどまだ希望は捨てちゃいない。

　誰か、僕を救ってください。女神様、仏様、どなたか――誰か！

「どうしたの、薄くん？　こんなところで犬のカッコなんてして」

「ちょっ七！　やめなよ！　その男、完全に通報案件だから！」

　四つん這いで項垂れる僕をも気に掛けてくれた、最後の女神――それは東雲さんだった。

　隣にいるのは、三谷（みたに）じゅん。

　ショートカットでスポーティな雰囲気の女子生徒。

　そのサバサバした性格が男子に人気な一方、

　キツめの釣り目で女子からは“怖い”と評されるタイプだ。

　そんな三谷に制されたって、東雲さんは言ってくれる。

『可哀想な言い方をしないの』――と。

　ありがたいけど、なぜだろう。

　言葉の意味が、なぜか僕を貶しているようにも聞こえる。

「東雲さん……」

「こら、七に手を出すなって！」

「ぎゃあっ！」

　伸ばした手を三谷に踏みつけられる。

　いや、確かに四つん這いで震えながら手を伸ばしてたら誰だって嫌がるよね!?

「もうっ、じゅんちゃん、だめだよ！　薄くんも頑張ってるんだよ！

　教室の隅でよくひとり芝居してるけど、とっても楽しそうなんだから！

　これを含めて薄くんは薄くんなの！　暴力はダメだよ！」

「……七。あんたそれ、擁護してんの？　貶してんの？　どっち？」

「え？　護ってるのよ。

　薄くんだって人だもの、皆に嫌がられる気持ちに立ってみたら、薄くんの気持ちもわかるでしょう？」

「……じゃあさ、なんでコイツ、地面に倒れてんの？」

　東雲さんの言葉に、僕は地面に顔を伏せていた。

　もう恥ずかしい。お婿に行けない……！

　東雲さんの天然攻撃は、僕にとって致命的な一撃だった。

　

「と、こういうわけなんだ」

　しばらくして、やっと話せる状態になった僕の話を真剣に聞き入れてくれる東雲さん。やっぱり天使だ、現代の天使だ。

　僕の話を聞くや否や、東雲さんは即行でオーケーしてくれる。

　三谷にも止められはしたが、それでも彼女は頷いて僕の妹の世話をしてくれると約束してくれた。

　不安に思った三谷は、眉を潜めながら東雲さんに告げる。

「七、本当にいいの？　何されるかわかったもんじゃないよ？」

「いいの。この前、ちょっと薄くんとの約束を破っちゃったことが、あったから。

　そのお詫びにってことなら、どう？　許してもらえるかな」

「まあ、七がいいなら……いいけど」

　この前のお詫び……。

　彼女が引っ越しの準備で約束をドタキャンしてしまったあの時のことだ。

　三谷もまた、東雲さんの言葉に渋々了承をする。

　やった、東雲さんがうちにくる……!?

　この天国を見た後は学校でどんな地獄になっているのかわかったものじゃないが、今はそんなことどうでもいい。

　東雲さんがうちにきて、妹と一緒に料理をしてくれる。それで……十分だ。

「なに鼻の下を伸ばしているのです？　幸はすぐ、お猿さんみたいに顔が伸びるのですねー」

「なあに鼻の下伸ばしてんのよ、この変態！」

　三谷とエールの言葉が一致する。ダブルパンチを受けて僕の心は粉々に砕け散りそうだった。

　

　翌日。美咲が来る日がやってきた。もちろん、東雲さんも。

　今日はどんな料理を作ってくれるのかな。東雲さんがいるだけで百人力だ！

　もう何も怖いものはない！

　僕は姑の如く、隅から隅まで埃チェックをしては掃除に励む。

　彼女に迷惑は掛けられない。うちの埃のせいで病気になったりしたら大変だ！

「幸、今日はいつになくお掃除を頑張るのですねー」

「あぁ。東雲さんが来るからね」

「あっ、十時のおやつの時間なのですー！　ちょこアイスとわっとっとを食べるのですー！」

　僕の言葉を無視して、エールは冷蔵庫へまっしぐら。

　……が、今回は逃さない。僕はその羽虫をがっしり掴み取った。

　アイス代がかさむからじゃない。違うんだ。東雲さんに変な目で見られたくないだけなんだ。

「あは、はは……幸、お顔が怖いのです……」

　いけない、いけない。これじゃ本当に虐待してるみたいだ。

　僕は冷静を装い、エールに言い聞かせる。

「今日は我慢しろ」

「ぶえー」

　不満げに漏れるその声。

「ぶえーじゃない。エールは皆に見えないんだ。開けたアイスやわっとっとが、ひとりでになくなったら怪奇現象だぞ？」

「無視するのです！　虫は無視ー！　なんちって！　ぐぎゃびっ！」

　軽口の途中で拳をきゅっと締める。

　エールは『ギブギブ！』と叫びながらバタついていた。

　自分を虫認定する神様ってどうなんだ……。

「とーにーかーく、彼女が帰るまでお預けです！」

　お母さんみたいに釘を刺すと、エールはしゅんと項垂れてつぶやいた。

「わ……」

「わ？」

「わー」

　ぶんぶん飛び回りながら、何かを訴えている。嫌な予感しかしない。

「わ……わっとっとー！　エールはわっとっとなしでは生きられないのですー！」

　はい、やっぱり。

「わっとっとー！　欲しいのですー！」

　鼻先にキックの連打。小石みたいな痛みが何度も刺さる。

　駄々っ子神様、ここに爆誕。

「わ、わかった！　じゃあ誰にも見つからないところで食べろ！　風呂とか！」

「湿気るです！」

「トイレ！」

「きちゃないです！」

「押し入れ！　タンス！」

「暗いです！」

「冷蔵庫の中！」

「冷たくて凍えちゃいます！」

「じゃあダメだ！」

　そう告げると、エールはトドメに五発ほどパンチしてから、机の上に泣き寝入りした。

　……ほんと、神様ってなんなんだ。

　そうこうしている間に――ピンポーン、とインターホンが鳴る。

「は、はーい！」

　泣く羽虫をそのままに、僕は慌てて玄関へと駆けた。