第05話「氷の聖女と温かいスープ」

 リディアの指摘通り、水源地が封鎖されると、領地の奇妙な病は、まるで薄皮を剥がすように快方へと向かっていった。人々は気力を取り戻し、枯れかけていた作物も、再び勢いを取り戻し始めた。


 領民たちは、自分たちを救ったのが、追放されてきた「失敗作の聖女」であったことを知った。当初、彼女に向けていた憐れみや不信の感情は、今や畏敬の念へと変わっていた。


『サンプル群:領民全体。感情パラメータ『畏怖』『感謝』『信頼』が急上昇。私に対する評価変数が、負から正へと転換したことを確認』


 リディアは、自室の窓から、活気を取り戻した町を眺めながら、静かにデータを分析していた。人々がこちらを見て、ひそひそと何かを噂し、そして敬意を込めて頭を下げていく。その一連の行動と、それに伴う感情の変化は、彼女にとって非常に興味深い観察対象だった。


 そんなある日、館の扉の前に、一つの籠が置かれているのに気づいた。中には、焼きたてのパンと、瓶詰めのジャム、そして数個の不揃いな野菜が入っている。贈り主を示す手紙はない。しかし、籠に添えられた野の花が、送り主の素朴な感謝の気持ちを伝えていた。


『事象:匿名の贈り物。感情データ:純粋な『感謝』。見返りを求めない、一方的な好意の表明。王都では観測されなかったタイプのサンプルだ』


 リディアは、籠を部屋の中に運び入れた。パンからは、温かく香ばしい匂いが立ち上っている。彼女は、それを少量ちぎって口に含んだ。味覚という感覚もまた、彼女にとっては分析対象のデータの一つでしかない。


『成分分析:小麦、酵母、塩、微量の糖分。食感:良好。味:素朴。総合評価:悪くない』


 それ以来、リディアの館の前には、毎日のように誰かからの贈り物が置かれるようになった。畑で採れたばかりの野菜、森で摘んだ木の実、手作りの干し肉。それらは、貧しい領民たちが、自分たちの生活の中から精一杯捻出した、感謝の証だった。


 リディアは、それらを拒むことはしなかった。彼女にとって、それらは領民たちの感情データを物理的に可視化した、貴重なサンプルだったからだ。


 ***


 カイウスは、そんな領民たちの変化を、喜びと共に、少しの戸惑いをもって見守っていた。そして、リディアという存在への理解を、さらに深めたいと感じるようになっていた。


 その日の夕食、カイウスはリディアを領主の館の食堂へと招いた。テーブルの上には、質素だが心のこもった料理が並んでいる。その中には、領民からの贈り物である野菜を使ったスープもあった。


「領民たちも、すっかり君に心を開いたようだ。皆、君を『氷の聖女様』と呼んで、感謝している」


 カイウスが、少し照れくさそうに言った。


「聖女、という呼称は不適切です。私は祈りで奇跡を起こすことはできません。ただ、観測されたデータに基づき、最適解を提示しただけです」


 リディアは、いつも通りの淡々とした口調で答えた。スープをスプーンで一口すする。温かい液体が、喉を通っていく。


『料理名:野菜スープ。主成分:カブ、ニンジン、ジャガイモ、塩、ハーブ。温度:摂氏65度。特記事項:領民からの提供物資を使用。これにより、摂取者に心理的な満足感を与える効果が期待される』


「君にとっては、そうなのかもしれない。だが、救われた者たちにとっては、それは奇跡と同じなんだ」


 カイウスは、まっすぐにリディアの瞳を見つめた。その黒い瞳に宿る感情は、純粋な『信頼』と『好意』。リディアは、その強い指向性を持つデータを、少し眩しく感じた。


「君は、人の感情がわからない、と言っていたな。だが、私にはそうは思えない。君は、誰よりも人の心の動きに敏感だ。そうでなければ、水争いの根本原因が、村人たちの嫉妬心にあるなどと、見抜けるはずがない」


「それは、彼らの感情を『理解』したわけではありません。ただ、過去のデータとのパターンマッチングによって、その行動原理を『分析』したに過ぎません」


「同じことではないか?」


「違います」


 リディアは、きっぱりと否定した。


「例えば、このスープを飲んで、カイウス様は『温かくて、美味しい』と感じるでしょう。その感情は、過去の記憶や、作り手への感謝といった、様々な変数によって構成されている。しかし、私には、その『美味しい』という感覚の構造が理解できない。私が得られるのは、温度や成分、そしてカイウス様から発信される『満足』という感情データだけです。その本質的な体験を、私は共有できない」


 それは、リディアが初めて、他者に自らの内面を吐露した瞬間だった。

 カイウスは、しばらく黙って彼女の言葉を聞いていた。そして、静かに口を開いた。


「……そうか。君が見ている世界は、我々とは少し違うのだな」


 彼の声には、憐れみも、拒絶もなかった。ただ、深い受容があった。


「だが、それでもいいのではないか? 君がどう感じていようと、君の行いが人々を救ったという事実は変わらない。君は、君のやり方で、この土地に必要なことをしてくれた。それで、十分だ」


 カイウスの言葉は、まるで温かいスープのように、リディアの内に染み込んでいくようだった。彼女の分析モジュールが、彼の感情データを解析する。


『対象:カイウス・アーデルベルト。感情パラメータ:受容、肯定、信頼。極めてノイズの少ない、安定した肯定的な波形。これは……』


 初めて観測する、純粋な肯定のデータ。それは、リディアの胸の奥で、ほんのわずかな、しかし確かな揺らぎを生み出した。まだ名前のつけられない、微弱なシグナル。


 リディアは、その揺らぎの正体を分析しようと試みたが、うまくできなかった。それは、彼女の理解を超える、新しい種類のデータだった。


 彼女はただ、黙って、もう一口、温かいスープを口へと運んだ。

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