明日の自分
中西 由糸
明日の自分
カーテンの隙間から差し込む光が、うっすらと瞼に影を落とした。数秒後、けたたましい音でスマートフォンが鳴り、寝ぼけ眼のまま手を伸ばす。慣れた指先で停止のボタンを押し、画面に浮かぶ「8:30」の数字をしばらく見つめた。昨夜のことを思い出そうとするが、頭の中は霧がかったようにぼやけている。なぜだか今日は、その曖昧さすら不安を誘った。
ふわりと揺れるカーテンを持ち上げた風が、まだ乾ききらない秋の気配を部屋に運んでくる。
洗面所で顔を洗い、鏡を覗きこむと、普段通り少しクマが残る、なんとも言えない表情をした自分が朝を告げた。切らしかけのインスタントコーヒーを入れ、大人めいたブラックを軽く口内に流し込んだ。カップに残る苦味と酸味が、背伸びを思わせた。一人暮らしを始めて一年半。ルーティーンをこなせるほどには生活に慣れてきた。
大学三年の後期はほとんど単位を取り終え、学校に行くのは週に二度だけ。余った時間が、ただの空洞のように部屋を満たしていく。地元から少し離れているこの部屋は、人が訪れることはほとんどない。地元が近かったとしても、来るのは親ぐらいであろう。3年前に夢見ていたキャンパスライフは、言葉通り夢のように頭の中から静かに姿を消していた。最近ではバイトと家の往復だけで、決して趣味と言えるものもなく、ただ生きるための1日を生きる意味にしていた。かくいう今日は一日なにも予定がない。こんな時、同世代のみんなはなにをしているのだろうか。想像をしても、自分が惨めで悲しくなるだけだと考えるのをやめてしまった。テレビの音だけが響く小さな部屋で、誰かの声をききたくなった。そんなことを思っていると、1人の女性が頭に浮かんだ。深く考えることをせず、電話をかけてみた。普段ならこんなことはしない。だが今日は孤独という漠然とした不安が体を突き動かした。半年ぶりの連絡が、いきなり電話だなんて失礼だ。
そんな矛盾した考えが頭をよぎり、とっさに電話を切ろうとした瞬間。
「もしもし」
明るい声が、石のように真実の機能を失っていた耳を貫いた。晴れた声色からは、あの時と変わらないハツラツとした表情を思い浮かべた。なにも考えずに電話をかけたが、案外スラスラ言葉が出た。
「今日なにしてる? 時間あるなら、ちょっと遊び行かない?」
「ごめん。今日予定あるから。最近忙しくて、また誘って」
短い沈黙の後、静かに電話が切れた。
顕著に出た自身とのギャップに、倦怠感すら覚えてしまった。"予定がある"――このセリフが、今の自分をどれだけでも陥れた。起きてまだ1時間と30分しか経っていないのに、疲れが出てきてしまった。なにもないという、はっきりとした時間が自分の今持っている全てだと知ると、無理もなかった。
その時、テレビの番組に映った、ただのよくある高々しい丸時計が、僕の古い引き出しの鍵になった。
母の、耳をつんざくほどの一声で、やっと瞼が薄く開いた。枕元の小さなデジタル時計を見ると、9時をちょうど回ったところであった。夢の残穢も引きずることなく、すぐに一階へ階段を駆け下りた。母に言われるがまま、洗面所で顔を洗う。
網戸から緑の風がなびくリビングには、忙しく鳴る食器の音と裏腹に、卓上で新聞に目を落とす父の姿があった。普段通りといったその光景に、幸せを感じる日はまだ来なかった。
あれは夏休みの終盤。子供にとっての大イベントが、閉幕を告げる準備をしていた。
宿題を早々に片づけ、子供の生業を享受できていた日々は、むしろ暇を持て余すほどだった。虫取りも、川遊びも、すでにやり尽くしていたからだ。
そんなとき、普段はけんのある父が、不意に珍しいことを言った。
「今日は、少し出かけないか」
子供の自分は、一瞬ぽかんとした顔を見せて、すぐに反応できなかった。
あのとき僕がまっすぐ返した「はい」と、母が見せた照れくさそうな表情が、とても母らしくて好きだった。
自らの準備を終えた父が、さっさと車に乗り込む。それに続いて、少し洒落た格好をした母が迷わず助手席に乗りこんだ。僕は少し遅れて、後部座席の真ん中に腰を落とした。一般的なファミリカーだが、大人2人と子供1人では少し大きすぎると感じていた。今思うと、僕の両親は大変珍しい、愛が溢れる夫婦だったのだろう。楽しそうに話す2人の横顔は、人生の暗黒を感じさせないものがあった。1人ゆらゆらと地面の振動に身を任せて、時間が過ぎるのを待っていた。
ピーピーという、慣れ親しんだ機械音を聴いた。
父がゆっくりドアから外に出た。反対側から母も降り、ほんの一瞬だけ暗い車内に1人残された。なぜかその一瞬に、たまらなくそそられるものがあった。母が扉を開けて僕を待つ。靴を履き直し外に出ると、煌々と光る太陽の光に照らされた。その時、後ろでバタンと大きな音が鳴った。勢いよく閉められたドアが、車の中に幸せな3人を閉じ込めた。眉を顰めた怪訝な顔をする父を、僕は何度見たかわからない。
父が向かった先は、街から少し外れたショッピングモールだった。入った瞬間、子供の目を引くのはやはりゲームセンターだった。自分より少し背の高い子がこぞって画面に顔を貼り付け、周りの喧騒もお構いなしでのめり込むのを、指を咥えて眺めていた。あの場所に行きたい。その感情とは逆に、両親の背中はその場からどんどんと遠くなっていく。その背中に、走って追いつくほかなかった。
併設されたスーパーは、地元のものと比べると2倍ほどある大きさで、迷子にならないのがやっとだった。
母は惣菜売り場で手際よく唐揚げやポテトを選び、父は寿司のパックを手に取っては「足りるか」と訊いていた。僕は決まって駄菓子コーナーに目を奪われ、最後には母に「ひとつだけ」と小さな袋菓子を買ってもらった。
両手いっぱいに買い物袋を抱えたあと、僕たちはモールの裏手に広がる大きな公園へと向かう。緩やかな丘のように広がる芝生には、シートを広げる家族連れが点々といて、夏の光に照らされて笑い声が弾んでいた。
母がレジャーシートを敷き、父が食べ物の入った袋を開ける。閉じ込められていた赫い匂いが、たちまち芝生の緑と混じり合って黄色く光った。
眼前に広がる豪勢な食事に我を忘れ、油で濡れた指を拭うことすらせず、口に放り込み続けた。
父のぶっきらぼうで聞き慣れた笑い声が耳を癒す。母の柔らかい笑顔が、僕の視覚を包んだ。
「うまいか」
父の言葉が、食欲から僕を掬い出した。
ハッとした顔をしていた僕に、父は
「お前は将来なにになりたい?」
考えるように少し頭を上に向けると、藍色の雲ひとつない空に、頭の長い丸時計が11:30を指してヒョロリと立ち浮かんでいた。
「わからない」
小さく呟いたため息のような言霊は、幻影の夏にサッと溶けた。あの時僕はなんと答えたのだろうか。少なくとも今、同じことを聞かれれば上を向くことはないとはっきりと自覚した。
そんな自分に嫌気がさして、不意に視線が自らの太ももに落ちる悪循環を、何度繰り返しただろうか。時刻はとうに正午を過ぎていた。
部屋に充満する香ばしい渋みが、自分の表情と合わさって、おかしくて口角をあげた。
その時、左手に持っていた携帯が電子音を奏でた。無邪気を体現した昔を、頑固な蝶々結びで繋ぎ。
ゆっくりと、それでも確かな速度で玄関の扉を開けた。外の空気が荒んだ部屋へ流れていく。小さなカップに残った秋色の珈琲が、静かに僕の背中を見送った。
明日の自分 中西 由糸 @n__yuishi
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