悪用の影を払え

第1話: 鏡の向こうの街

夜の帳が降りる頃、小さな地方都市「霧ヶ丘」の片隅にある古びたアパートの一室で、青年は鏡の前に立っていた。彼の名はアキラ。二十五歳。街の人々は彼を「優等生だった子」と呼ぶ。高校時代は生徒会長を務め、大学では文学を専攻し、卒業後は地元の図書館で司書として働いている。誰もが認める「まじめな青年」だ。だが、その鏡に映る姿は、彼自身を苦しめ続けてきた。

鏡の中の体は、確かに男のそれだった。肩幅は広く、喉仏がくっきりと浮き、声は低く響く。だが、アキラの心は違う。物心ついた頃から、彼は「女の子」として生きることを望んでいた。幼稚園の頃、女の子たちのグループに入りたかった。ドレスを着てみたいと思った。母親の化粧品をこっそり使って、頬に口紅を塗った日もあった。だが、父親の怒鳴り声がそれを許さなかった。「男なら男らしくしろ!」――その一言が、幼いアキラの心に深い傷を残した。

成長するにつれ、アキラは自分の気持ちを押し込めた。学校では「普通の男の子」を演じた。サッカー部に入り、友達と笑い、恋愛の話もした。だが、心の奥底では常に違和感があった。鏡を見るたびに、自分の体が「他人」に見えた。夜、布団の中で泣いたこともある。「なぜ、僕はこんな体に生まれたんだろう」。その疑問は、誰にも言えなかった。

二十歳の時、アキラは初めて「性同一性障害」という言葉を知った。大学の図書館で、心理学の棚から一冊の本を手に取ったのだ。そこには、彼と同じような苦しみを抱えた人々の記録が綴られていた。「自分は間違っていない」。その瞬間、アキラの心に小さな光が灯った。だが、同時に恐怖も湧いた。「もし、誰かに知られたら?」。霧ヶ丘は小さな町だ。噂は一瞬で広がる。家族は? 友達は? 職場は? すべてを失うかもしれない。

それでも、アキラは決意した。二十三歳の春、彼は専門医を訪ねた。診断は「性同一性障害」。ホルモン治療が始まり、声は少しずつ高くなり、体毛は薄くなった。名前も「アキラ」のままにしておいたが、心の中では「アカリ」と名乗っていた。少しずつ、自分らしい姿に近づいていく喜びがあった。だが、同時に、周囲の視線が変わり始めた。

最初に異変を感じたのは、職場だった。図書館の同僚たちは、最初は「風邪でも引いたの?」と冗談めかして言った。だが、ホルモン治療の影響で声が変わり、服装が少しずつ女性寄りになると、雰囲気は一変した。休憩室での会話からアキラは外され、利用者からの苦情も増えた。「あの司書さん、なんか変じゃない?」。上司は優しく接してくれたが、利用者対応のシフトは減らされた。理由は「利用者の快適さを優先するため」――表向きの理由だった。

家族の反応はもっと辛辣だった。母親は泣き崩れ、父親は「恥ずかしい」と吐き捨てた。妹は「気持ちはわかるけど、街で一緒に歩くのは……」と距離を置いた。実家に帰ることはなくなった。アキラは一人、アパートで暮らすようになった。だが、街の人々の視線は容赦なかった。スーパーで買い物をしていると、背後で囁き声が聞こえる。「あれ、男? 女?」「気持ち悪いよね」。子どもたちが指をさして笑うこともあった。

ある日、アキラは勇気を振り絞って、図書館のトイレ問題に直面した。女性用トイレを使いたい――それは当然の願いだった。だが、管理者は「利用者から苦情が来る」と拒否した。男性用トイレを使うと、今度は男性利用者から「女がいる」と文句が出る。どちらに行っても、煙たがられる。ある日、トイレの前で中年女性に睨まれ、「偽物でしょ」と吐き捨てられた。アキラは言葉を失った。偽物? 自分は、ただ自分らしく生きたいだけなのに。

街の噂はさらに広がった。SNSでは「霧ヶ丘の変態司書」として、アキラの写真が拡散された。誰かがこっそり撮ったものだった。コメント欄には「トイレに入られたら怖い」「子どもがいるのに」「トランスは犯罪予備軍だ」――根拠のない言葉が並んだ。アキラはスマホを閉じ、部屋の電気を消した。暗闇の中で、彼は問いかけた。「なぜ、僕は煙たがられるのだろう? 悪いことをしたわけじゃないのに」。

この物語は、アキラ一人のものではない。日本中に、世界中に、同じ苦しみを抱える人々がいる。性同一性障害は、決して悪いことではない。医学的にも、社会的にも、それは個人のアイデンティティの一部だ。だが、なぜ煙たがられるのか? それは、一部の人間がこの概念を悪用し、社会の信頼を崩壊させるからだ。偽りの「トランスジェンダー」を装い、不適切な目的で施設を利用する者。注目や特権を求めて「流行り」に乗る者。彼らの存在が、本物の当事者を汚し、偏見の連鎖を生む。

アキラの物語は、まだ終わらない。彼は明日も鏡の前に立ち、自分の姿を見つめるだろう。そして、私たちは問わなければならない。なぜ、彼のような人々が、ただ生きるだけで煙たがられるのか? その答えは、悪用の影と、社会の無理解にある。この導入は、物語を通じてその問題の本質に迫る第一歩だ。

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