夕暮れのささやく

南條 綾

夕暮れのささやく

 今日の夕方、大学から帰る途中で琴葉からLINEが来てたので内容を確認した。

「今日は早く帰ってきて。サプライズあるよ」


 画面を二度見して、心臓が少し速くなるのを感じた。

サプライズって何だろう?私の誕生日ではない。

いつもはのんびり歩くのに、今日は足取りが自然と軽くなって、坂道の途中で息が上がるのも忘れちゃう。

楽しみがあると体力の限界を忘れるって本当に身体っていうのは不思議だなぁって一瞬考えてしまった。


 今暮らしてるマンションは、街の坂の途中にある古い建物で、4F建てなのでエレベーターが無いんだよね。

階段を上るたびに太ももが少し張るんだけど、そんなの気にならない。

汗が首筋を伝って、シャツの襟を湿らせる頃にようやく鍵穴に鍵を差し込む。


 カチャッと音がして、ドアを開けると、部屋に柔らかいランプの光が広がってる。

いつもの蛍光灯じゃなくて、琴葉が選んだあの暖かいオレンジのランプ。

空気が少し甘い匂いで満ちてて、期待で胸がざわつく。

テーブルの上には、手作りのクッキーが五、六個並んでる。

ランダムに並べられた感じが、遊び心があっていいなぁ。


 クッキーの端っこが少し焦げてて、不揃いな形だけど、それがまた愛おしいし、手作り感があるよね。

琴葉の細い字で「綾の笑顔に、甘いお礼」ってカードに書いてあった。

甘いお礼って何だろうって思いながらふと思い出した。


 昨日、私が大学から帰ってきて、琴葉が文学部の発表で疲れ果ててため息ついてた。

「どうしたの?」って私が聞いてみた。

よっぽどな事がないとそんな顔をしない琴葉を一緒に暮らしてから見たことがなかった。

琴葉がソファにぐったり座って「もうダメかも」って呟いてたから、私はクッキーの残りを温め直して、彼女の膝に座って「琴葉の笑顔が、私の元気の源だよ」って言ったんだった、

そしたら、琴葉がぷっと噴き出して、弱いけど本物の笑顔を見せてくれた。

本当に何を口走ってるんだろうと自分が言った事なのに、恥ずかしかった。


「ただいまー。琴葉、いる?」


 声を少し抑えて呼ぶと、リビングの奥からページをめくる音が止まる。

ソファに座って本を読んでる琴葉が、ゆっくり顔を上げて、私を見てぱっと明るくなった。

眼鏡の奥の瞳が、夕日みたいに輝いて、黒髪を耳にかける仕草が優雅で、つい見とれちゃう。

彼女は本を膝に置いて立ち上がって、そっと近づいてくる。

本当に美人は得だよね。すごく絵になって少し口元が緩んできていた。


 今日の服はいつもの白いブラウスで、袖が少し長くて、手の甲が半分隠れそう。

歩くたびに、裾が軽く揺れて、琴葉の細い足首が見え隠れする。

彼女の香りが、ふわっと近づいてきて、シャンプーの香りと、クッキーのバターの甘さが混ざって、私を迎えてくれていた。


 家に帰ってきた感じが、私が帰るべき場所がここだと本当にしっくりきていた。


「おかえり、綾。サプライズ、気に入った?クッキー、ちょっと形がいびつだけど……」

琴葉が私のバッグを優しく取って、ソファの横に置く。

彼女の指がバッグのストラップに触れる感触が、なんだか親切で、胸がきゅんとする。


 私は隣に腰を下ろした。琴葉はトレイから一番大きめのやつを選んで、私の口元に持ってきてくれる。

彼女の指が、私の唇に軽く触れて、温かさがじんわり広がる。

指先の爪が短く切ってあって、ほんのりピンクのネイルが塗ってある。

昨日一緒にネイルショップで選んだやつだ。


かじると、チョコチップの甘さが口いっぱいに広がって、外はサクサク、中はしっとり。

バターのコクが後を引いている。


「うん、めっちゃおいしい。琴葉が焼いたの?いつこんな時間作ったのよ。午後の講義、全部出てたよね?」


 私はクッキーを頬張りながら、彼女の肩に寄りかかる。

琴葉の肩は細くて、ブラウス越しに骨のラインがみえて、抱きしめたくなってきている。

流石に今抱きしめたら、琴葉が作ってくれたクッキーが落ちる可能性あるからやらないけど。


 彼女はくすっと笑って、私の髪を指で梳き始める。

指先が耳の後ろを優しく撫でて、くすぐったいのに心地よくて、思わず目を細める。

外の窓から、夕陽でオレンジに染まって部屋を温かく包む。

カーテンの隙間から差し込む光が、クッキーの皿に影を落として、なんだか絵画みたい。

こんな日常の終わりが、いつも特別になるのは、琴葉のおかげ。

彼女がいなかったら、ただ疲れて帰ってきて、インスタントラーメンで済ますだけだ。

誰かのために思って作るのはいいけど、めんどくさがりの私はきっとインスタントになるんだろう。



「午後、講義が早く終わったから。教授が急に体調悪くなって、残り半分キャンセルしたの」

講義途中で抜けるのはまずいでしょ。全く。


「綾の好きなチョコ多めに入れたんだけど、すこし物足りないかな?綾のキスで調整してほしい」


 琴葉の声が少し低くなって、耳元で囁く。

彼女の息が首にかかって、ゾワッと背筋が震える。

いつもはクールな文学部の優等生なのに、こんな時だけ、甘い言葉をさらっと言って、私を翻弄する。

クッキーの皿を受け取ってから、それをテーブルに置いた。

私は琴葉の頰に手を当てる。

柔らかい肌が、熱を持ってて、凄く愛おしいのと、頬の熱が私の手を伝わってきていた。

彼女の頬は少し上気してて、触れると弾力がある。柔らかく餅のよう。

目を閉じて、そっと唇を重ねる。


 琴葉の唇はクッキーの甘さが残ってて、溶け合うみたいに柔らかい。

最初は軽く触れるだけだったのに、彼女の手が私の背中に回って、ぎゅっと抱き寄せられる。

ブラウス越しに感じる琴葉の体温が、熱くて、キスが深くなるたび、心の奥がふわふわに溶けていく。

彼女の舌が少し触れて、チョコの味が混ざって、頭がぼうっとする。


 ようやく離れた時、琴葉が照れくさそうに目を伏せて、私の鼻先に自分の鼻をくっつける。

彼女の眼鏡が少し曇ってて、指で拭く仕草がまた可愛くて、思わず笑いがこみ上げる。

息が少し乱れてて、互いの鼓動が重なるみたい。


「綾の味、最高の調整だ。足りなかった味が、ぴったりになったよ。もう一枚、食べよう。 まだ温かいうちにね」


「ううん、次は琴葉を食べちゃうかも。クッキーより、ずっとおいしそう」


私は悪戯っぽく笑って、彼女の首筋にキスを落とす。

琴葉が「きゃっ」って小さく声を上げて、ソファに倒れ込む。


彼女の髪がクッションに広がって、黒い糸みたいに美しい。

私も一緒に転がって、二人でくすくす笑う。


クッキーの皿がテーブルで軽く揺れて、外の街の音が遠く聞こえてきた。

ゆるい夕暮れに、こんな甘いささやきが、毎日を彩ってくれる。

琴葉の笑顔を見てるだけで、明日の朝が待ち遠しくなる。


 夜が深まって、シャワーを浴びてベッドで並んで横になる。

シーツの冷たさが心地よくて、琴葉が私の手を握ってくる。

彼女の掌は少し湿っていて、今日のクッキー作りの名残りかも。

今日の出来事をぽつぽつ話す。大学の友達の噂話とか、講義で読んだ詩の断片とか。


 琴葉の声が子守唄みたいで、眠気が優しく訪れる。

私は指を絡めて、目を閉じる。

彼女の親指が、私の手の甲を優しく撫でて、安心感が全身に広がる。


「琴葉、明日もサプライズ待ってるよ。期待しちゃうから、プレッシャーかけちゃった?」


「ふふ、約束。綾の毎日に、甘さを添えるよ。明日は……ヒントだけ。朝のコーヒーに、特別なミルク」


彼女の声が耳元で響いて、微笑みながら眠りに落ちる。

このささやきが、夢に続く。


 ゆるくて、温かくて、私の日常。

琴葉と出会ってから、日常がこんなに輝くなんて、想像もしてなかった。

明日も、きっとこんな風に、二人で小さな幸せを積み重ねていくんだろうな。

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