ライの冷たさ

@Tsazanka

第1章 ライ

 朝の光は、無音のほこりのように沈んでいた。 カーテンを通して届くそれは、温度を持たない白の粒子として部屋を漂い、サキのまぶたに触れることもなく通り過ぎていった。


 ノートパソコンのモニターが、薄く青い光を放っている。 画面の中では、誰かの声が流れている。インタビュー音声だ。 「──だから、愛って、結局……」 言葉は途中でノイズに溶けた。サキは一時停止のキーを押す。 画面に止まった波形の断面が、まるで脈の途切れた心電図のように見えた。


 サキはかつて、デザイン事務所で地味なアシスタントをしていた。創造性の傍観者。 文字起こしは、その傍観者としての人生の延長線上にある。 自分の人生を停止させ、他者の言葉を安全な距離から眺めること。


 部屋の隅で、ライが息をしている。 老犬の呼吸は、浅く、音を立てる。 金属の摩擦音のようなその呼吸が、サキの耳の奥に小さな痛みを残す。 ヘッドホンの外にある「生のノイズ」。 彼女は時々、それを聞くためだけに音声再生を止めるのだった。


「そっか。君はそうなんだね」 サキは言った。 声は床に落ちて、音もなく割れた。 ライは目を開けもしない。夢の中で何かを追っているような脚の動きをしていた。


 かつて、ライには別の主人がいた。 その人はもう、この世界にいない。──元恋人。 サキは反射のようにライを引き取った。愛ではなく、過去の幻影に触れたくて。


 元恋人はかつて言った。「君は、僕の熱を映すために、わざと静かな人を演じているんじゃないか」 熱が消えた今、その静けさは行き場を失っていた。


 ライはサキに懐かない。彼の世界には、サキが存在しないかのようだった。 サキはその無視の中に、むしろ安心を見つけることがあった。 愛されないことのほうが、長く呼吸できる。


 ヘッドホンを外す。 耳の奥に残るのは、低くくぐもった呼吸音。 腐った木の匂いのような、老いた毛のにおい。 それらが一つの輪になって、静寂を形づくっていた。


 机の上に、一枚の写真がある。モノクロの写真。 笑っているサキ。写真の中の自分が、今よりも少しだけ世界を信じているように見える。


 サキが写真に指先を触れる。冷たい紙の感触が、現実の温度を奪っていく。 ライの寝息が、まるで別の時間から流れてくるようだった。


 ライが身じろぎをした。足元のシーツに、茶色い染みが広がる。 サキは反射的に立ち上がり、ティッシュを手に取る。 アンモニアのにおいが立ち上がる。指先に染みつく温かさ。


 ──写真の中の自分は、まだ汚れることを知らなかった。


「ライは、汚れることも、醜くなることも、ためらわないんだね」 サキはつぶやく。「私は、それができない」


 その夜、ライの呼吸がいつもより浅かった。 体を撫でると、骨の一本一本が手のひらに浮かぶ。 胸の奥で何かがはじける音がした。 それが悲しみなのか、恐れなのか、サキにはもう判別できなかった。


 彼女は立ち上がり、窓を開けた。夜気が流れ込む。 冷たい空気が、彼女の頬に触れた。 それは涙のようでいて、涙ではなかった。

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