第3話:閻魔の契り

 空がまだ東雲色の頃から京志郎は外に出た。


 人の気配はまばらで、宿場は穏やかな静寂に包まれている。


 人気のない三井寺は、穏やかな静寂がひっそりと流れている。


 そこで京志郎はそっと手を合わせた。


 信心深い方ではなかったが、ここでのお参りがいつしか彼の日課となっていった。


 それが済むと京志郎はすぐに三井寺を後にする。


 鬱蒼とした竹やぶに身を投じてからしばらく――


「さて……」


 と、京志郎は開けた場所で腰の大刀をすらりと抜いた。


 ゆっくりと構え、そして稲妻のごとき踏み込みと同時に打ち落とす。


 修練である。人目に晒さぬよう毎朝早くからするのがもう一つの日課だった。


 しばらくして――


「おぉ、朝早くから稽古とは感心感心」


 と、昨晩の鬼娘がひろりとやってきた。名は、確か愛華だったはず。


 京志郎は手をぴたりと止めると、彼女のほうをゆっくりと見やった。


「どうしてここがわかった?」


「もちろん、浄玻璃鏡じょうはりのかがみで見てた」


「……おかしいな。記憶違いでなければ、それは確か亡者の善悪を見極めるために使われるもののはずだが」


「うん、だから見たよ。お前の善悪の行い」


 愛華がにやりと不敵に笑った。


 京志郎は、至って冷静である。


「それで? 閻魔大王の娘様はこの俺を裁きにきたのか?」


「あれ? ずいぶんと落ち着いているね」


「自分がどういう人間かくらい、言われなくてもわかっている」


 京志郎は深い溜息を吐いた。


 そも暗殺を生業としている時点で地獄行きは確定だ。


 京志郎自身も、それについては否定するつもりは毛頭ない。


 遅かれ早かれ、行き着く先は結局地獄である。そうとわかっているからこそ、取り乱したりしない。


「じゃあその地獄を回避できる……って、聞いたらどうする?」


「なに?」と、京志郎はいぶかし気な視線をやった。


 愛華は相変わらず不敵な笑みを浮かべている。なにかを企んでいる顔だ。


「どういうことだ?」


「京志郎、このままいくとお前は確実に地獄行き。そこでの責め苦にきっとお前は耐えられない。だけど、余の手伝いをすれば極楽行きにすることができる。かも?」


「……不確定な取引はしない」


「待った待った! かもっていうのは京志郎の働き次第ってこと! 仮に無理だったとしても地獄にいる期間をうんと短くすることは確実にできる!」


「……お前は俺になにをさせるつもりだ?」


「じゃあ引き受けてくれるってことでいいのかな?」


「内容次第だ」


 京志郎は手頃な岩に腰を下ろした。


「――、先の大戦については知ってる?」


「あぁ、俺は参加していないがな」


 百年と少し前、東西分かれての大きな合戦があった。関ヶ原の戦いである。


 多くの死傷者が出たこの戦いで、西軍・・が辛勝を収めた。


「当然地獄には多くの死者の魂がやってきた。だけど、その大半は未だこの世を彷徨っている。余の仕事はね、そうした現世に留まる霊を然るべき場所へ送ることなの。もちろん、圧倒的に多すぎる数だから余一人じゃ捌けない。そこで獄卒に協力してもらっていたんだけど……」


「なにか不祥事があった、というわけか」


 愛華は小さく首肯する。


「獄卒も元々は亡者なの。生前武芸に秀でた者や知識の高い者、そういった者を極楽にいけない、だけど地獄で責め苦を与えられない代わりに地獄で永遠に奉仕する。それが獄卒」


「それは、はじめて耳にしたな」


「その獄卒なんだけど、まぁなんていうか……その……ね?」


 途端に愛華の歯切れが悪くなった。


 口籠りなかなか先へ進もうとしない彼女に、京志郎ははて、と小首をひねる。


 それとは同時に、ある仮説が浮上した――きっとこいつがなにかやらかしたな、と。


 京志郎はそれを言葉として紡いだ。


「お前がなにかやらかしたんだな?」


「うっ……」と、愛華の肩がびくりと震えた。図星だったらしい。


 少しして、愛華はか細い声でもそもそと口火を切る。


 その様子は母にイタズラがバレで叱られた幼子のように弱々しい。


「ちょっと……ほんのちょっと目を離した隙にね? 完全に調伏できていなかった子が現世に逃げちゃって」


「……ちなみに、どれぐらいだ?」


 おずおずと愛華が両手の指を立てた。


「十人か」


「う、うん……」 


「獄卒が現世に逃げたとして、いったいどんな影響が出る?」


「さっきも言ったけど、獄卒は元々人間。地獄だからこそ人としての自我が保てる。でも、現世の空気は亡者にとっては毒でもあり快楽の薬も同じ。一度口にしてしまえばもう、元には戻らない」


「人としてあったころの未練や恨み。そして生に執着する、というわけか」


「察しがよくて助かるわ。そうやって獄卒はなんとか人としての肉体を得ようと画策する。時に人を襲う強大な悪霊として、時に民を惑わす悪神として……ね」


「なるほど。事態は想像していたよりもずっと危ないな……」


 京志郎は小さく息を吐いた。


(こうしている間にも獄卒がなにをしでかすかわからない。そうなった日には――)


 たちまちこの世は、再び乱世となりかねない。京志郎は危惧した。


「そこで目を付けたのがお前ってわけ」


 びしっと錫杖が突きつけられる。


 鋭利な先端を目前に京志郎は怪訝な顔を示した。


「何故そこで俺に白羽の矢が立つ?」


「それはお前が使える人間だからだ」


 あっけらかんと答える愛華。


「余の使いを通してずっとお前を見ていた。最初は、お前も獄卒じゃないかと思ってた」


「俺が人ではないと?」


 京志郎はからからと笑った。


「だってそうじゃない」


 しかし、愛華はすこぶる本気でそう返した。


 揶揄ではない。まっすぐな視線は真剣そのものである。


「お前は人としての域を明らかに超えている。だから余は疑ったんだ――まぁ勘違いで終わったけど」


「……そう思われても致し方なし、か」


 思い当たる節があるだけに、京志郎もそれ以上言及はしない。


 頭をわしゃわしゃと掻く京志郎は苦笑いをそっと浮かべる。


 京志郎の肉体は、常人という枠にはもはや収まらない。


 愛華が誤解したとしても、それは致し方ないことでもあった。


「どうやってそこまでの力を得たの?」


「さぁ。ただ、幼い頃に雷に打たれてからずっとこうだ」


「雷に……? もしかして、それが原因で?」


「さぁな。でもおかげで俺は仲間内じゃ雷神の申し子だの、雷人だの、言われるようになったよ。おまけに身体もすこぶる調子がいいし、打たれてこの方体調を崩したことがない」


 京志郎は着物をはだけた。


 右肩に沿って走る痛々しく歪な火傷の後が、当時を物語っている。


(今にして思えば、よく生きていたな)


 京志郎はすこぶる本気でそう思った。


「――、雷に打たれても死ななかった男。うん、ますます気に入った。というわけで余に協力する権利を与えてやるぞ」


「断る」と、京志郎はきっぱりと断った。


「どうして!?」と、愛華がひどく困惑する。


「本気で言っているのか?」


 京志郎はほとほと呆れた顔で、盛大な溜息も隠そうともしない。


「逆に尋ねるが、どうして協力してもらえると思った? 悪いが俺には関係のない話だ。自分が蒔いた種ならそれを狩るのもまた自分。せいぜい頑張れ」


「ま、待って待って! お願いだからちょっと待ってよぉ……!」


 愛華が必死の形相で足元にしがみついた。


 仮にも閻魔大王の娘でありながら、その威厳や誇りが微塵もない。


 円らな瞳も大粒の涙によって潤んでいる。


「も、もしこのことがお父様にバレたら怒られちゃうよ!」


「俺になんの関係が?」


「うぅ……お願いだよぉ。余に協力してよぉ……なんでもするからさぁ」


 ついにわんわんと大声で泣いてしまう愛華。


 その言動はもはや幼子となんら大差ない。


 外見相応の反応に――


「はぁ……」


 と、京志郎は肩を竦めた。


 本当に閻魔大王の娘なのか、そう問いたい気持ちをぐっと抑える。


「極楽域を確定してくれるのなら協力してやる」


「え?」と、愛華がぱっと顔を上げた。


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔にも徐々に笑みがほころんでいく。


「俺としても泰平の世が訪れつつある日ノ本が戦乱の世になるのだけは避けたい。それは俺だけでなく、ヤタガラスの総意でもあるだろう」


「あ、ありが――ううん!」


 突然咳払いをする愛華。


「では、余の手伝いをすることの許可を与えてやるぞ! せいぜい、余のためにきちんと働くのだぞ。わかったな、京志郎」


 涙はもうなかった。目元は真っ赤になって腫れぼったい。


 しかし言動がいつもの彼女へと戻る。


 生意気な餓鬼としての振る舞いに、京志郎は思わず拳を握った。


 拳骨を一つ落としてもきっと、咎められはしないだろう。そんなことを思った。

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