オープンワールドの因果律

@kon_zm

第1話 オープンワールドへようこそ

 夏もすでに終わろうとしていた。驟雨が降る中、一人の女がひっそりと山奥の工業用倉庫の中で死んでいた。女の外傷は激しかった。腕や足はちぎれ、切り裂かれたような傷が身体中に残っていた。

 そうして、世界は混乱の渦に飲み込まれていった。



「よし、学校を辞めよう」

 まさか一年半後に女の死体を発見することになろうとは思っていない四乃森結良がそう思った瞬間に、目の前で静かに日本史の問題集を説いていた男子高校生が驚いて顔を上げた。どうやら考え事が口をついて出てしまっていたらしい。男子生徒と互いに驚いた顔を見合わせてから、二人は何事もなかったかのように目を逸らした。

 結良は再び頬杖をついて窓の外をぼんやりと眺めた。夏休みも目前に迫った木曜の五時間目、結良は高校二年生の自習監督をしていた。期末試験が近いということで、危機感を全面に出す者や、夏休みを待ちきれない様子で教室中を駆け回る者など、三者三様の自習時間を過ごしていた。運動部の生徒たちが頬杖をつく結良の横まで来た。なんとかして試験に出そうなところを聞き出したいらしい。

「授業中いつも言ってただろう、ノートに書いたことしか出ないぞって。あとは英単語の勉強でもしておけ」

 ぶーぶー言いながら自席に戻る野球部員と水泳部マネージャーの背中を眺めながら、結良は自分が作成した英語の試験問題を思い出した。睡眠不足になりながら一週間かけて作った問題は、授業を聞いていれば安易に答えられるものばかりだ。それくらいのレベルがこいつらにはちょうどいい。

 思い返せば教員歴八年、苦行の日々を送ってきた。頭でっかちな年配教員は若手教員を奴隷かなにかだと勘違いしているし、無限に増え続ける仕事のおかげで毎日の授業は自転車操業だった。あまり感情を表に出さないせいか、結良が職務を淡々とこなしているように周りには映っていたようで、なぜか他分掌の仕事まで回ってくるようになった。

 果たして、自分の人生とはなんなのだろう。まるで滑車を走るハムスターのように、全力で走っていながら一向に前に進んでいないように感じていた。そして、ここにきて溜まっていた不満や焦りが一気に爆発した。

 自習時間終了のチャイムがなると、先ほど目があった男子の心配そうな表情が結良の胸を突いた。ごめんな。彼の視線に気づかないふりをして、結良はその足で校長室に向かった。カーネルサンダースのような風貌の校長は、まさか、とだけ言ったが、今年度いっぱいでの退職を許してくれた。

 それからの毎日は、結良にとってあまりにも解放的だった。奴隷扱いしてくる上司にも優しくできたし、無限に増える仕事も楽しんでこなすことができた。

 年度末、ついに退任式の日がやってきた。職員室で過ごす時間は苦痛以外の何物でもなかったが、生徒たちと戯れた日々は本当に楽しかった。パワハラ上司からの心ない言葉を頭の中で反芻しながら教室の扉を開けると、そこには純粋無垢な生徒たちの顔があった。

 結良は壇上でスピーチをしながら、そんな日々を思い出していた。

「そんなに目の下にくま作ってウケる。先生、ちゃんと寝てる?」と口々に言われ、「毎日八時間しか寝てないよ」などと軽口を叩くと、そこらへんにいた生徒たちが楽しそうに「十分だわ!」と腹を抱えて笑う、そんな光景が好きだった。聞いてもいないのにやれ誰と誰が付き合ってるだなんだを教えてくれる、放課後の暇を持て余す生徒たちの楽しそうな表情が好きだった。

 しかし、俺はもうここには絶対に戻らない。生徒たちの人生も大事だが、これからは自分自身の人生を見つめ直す時間だ。脱ハムスター人生。

 後部座席いっぱいの花束は、車が揺れるたびに葉が擦れる音を立てる。女子生徒たちからは大量のラブレターをもらい、共に働いた先生たちからは餞別の言葉をもらった。それ以外にも、結良が自分の命を削って働いた時間はお菓子の詰め合わせやギフトカードなどに変わった。八年間の地獄を思い出し、不覚にも泣きそうになった。しかしそれでも清々しい気持ちには変わりない。明日からは無職だ。なにより、自由だ。

 帰り道に結良は文房具屋に立ち寄り、一冊のノートとシャープペンシルを購入した。どちらもシックなデザインで、手にするだけで気分が良くなった。家に着くなり、教職に捧げてできなかったことを、すべてノートに書き出した。

 話題の映画を片っ端から観る。話題の漫画を片っ端から読む。国立博物館に行く。ついでに美術館にも行く。大きい公園でゆったり本を読む。海外へ旅をする。好きなアーティストのライブに参戦する等々。

 壮大なものからくだらないものまで、様々な規模の野望が、ノートの上から下まで何ページにもわたって書き込まれた。ときにはコンビニのチラシラックに置かれていたチラシをノートに貼り付けたり、SNSで見つけたイベント情報も書き加えたりした。失われた時間を取り戻すかのように、余白がどんどんと埋められていく。結良は苦笑いを浮かべながら、真っ黒になったノートを眺めた。

 翌朝、いつものようにスマホのアラームで目が覚めた。カーテンから漏れ入る陽光を見て辟易する。掛布団を頭からかぶり唸る。仕事に行きたくない。しかし、布団から出なければ。意を決して思い切り布団から出たところで思い出した。そうだ、これからは何時まで寝ていてもいいんだ。憎らしく思えた朝日が、途端に天使からの祝福かと思われるほど神々しく見えた。そして結良は再びもそもそと布団の中へと引き返し、追加二時間の二度寝を堪能した。

 結良が目を覚ますと、壁に掛けてあった時計は午前八時を指していた。

 今頃学校では職員の朝礼が始まる時間だ。押し並べて厳めしい顔をしてスーツを纏った大人たちが一日のスケジュールや共有事項を話し合う、傍から見ると奇妙な儀式にも映るその朝礼が、毎朝低血圧で頭が働いていない結良にとっては苦痛以外の何物でもなかった。そんな、厳かな儀式が行われている時間に未だ自分は布団に籠っているなど、なんて贅沢なのだろう。

「ざまあみやがれ」結良は絶えずパワハラをしてきた教師の顔を思い浮かべた。俺はお前らみたいなハムスター人生から一歩進んだんだ。

 結良はのそのそと布団を出た。図書館の開館は十時だ。無限に終わらない授業準備のせいで、読みたかった本は山ほどあった。今日はそのうち何冊かを借りる予定だった。

 台所の戸棚からオートミールを出して皿に盛り、牛乳をなみなみと注いだ。リビングのソファに座ってテレビをつけると朝の情報番組がやっていた。世界幸福度ランキング上位の国を取材したコーナーが流れている。現地リポーターが道行く北欧の住人たちを片っ端から取材している様子が映されていた。今の俺は彼らに負けないくらい幸福で満たされている、と結良は朝食を口に運びながら思った。

 食べ終わった食器を丁寧に洗い、米を炊いている隙に洗濯機を回した。コーヒーを淹れて、サブスクリプションで選んだ映画を再生する。血の流れないヒューマンドラマは、結良の心にすっと染み入った。なにごともハッピーエンドがいい。人生だってそうだ。

 夢中になって映画を見入っていると、炊飯器が米の炊けたことを知らせた。米を一食分ずつラップで包み、冷凍していると、今度は洗濯機が洗濯完了の合図を鳴らした。洗濯物を持ってベランダに出ると、外は春らしい日差しだった。柔らかい日差しとともに、どこかから舞ってきた桜の花びらが結良の目前をかすめていった。

 図書館の開館に間に合うように結良は家を出た。黄金色の陽気を浴びながら、以前とは反対の方角に足を向ける。学校を背にしてしばらく歩くと、市立図書館が見えてきた。すでに開館時間は過ぎていたため、館内には年配の人や子ども連れがまったりと本の壁の間を歩いていた。この時間だったら、生徒はまずいないだろう。そう思いながらも結良は周りを警戒しながら目当ての本を探した。合計六冊借り、満足して図書館を後にした。

 図書館から歩いて五分ほどのところに、大きな公園があった。白い石畳が広がる広場の中央には、噴水が高く水柱をあげていた。結良は手近なベンチに腰を下ろし、借りてきたばかりの本を開いた。ゆったりと本の世界に没頭しようとしていると、近くで小型犬の鳴き声がした。肩をびくつかせ、声の方に恐る恐る視線を向けると、足元でトイプードルがうるうるした瞳で結良を見上げて座っていた。

「ひいいっ!」

 結良が情けない声を出しながら、足をすくめてベンチの上で丸くなっていると、飼い主と思われる女性が駆け寄ってきた。女性はトイプードルを抱えながら、しきりに謝っているが、その声は結良の耳には入らない。いつ噛みついてくるかわかったものではない。結良はトイプードルから目を離すことができなかった。

 飼い主の女性は一向に立ち去る様子を見せず、ただ結良に向かってお詫びをさせて欲しい、と甘ったるい声でしきりに言ってきたが、結良にとってそんなことはどうでもよかった。一刻も早く犬を連れてどこかに行ってほしい。

 女性が残念そうな顔をしながら犬を連れて離れていくと、結良は彼女たちが遠ざかったことを確認し、ほっと息をついて再び本に目を落とした。街に出ればこんな恐怖体験もあるだろう。これもまた自由の代償。そう思いながら本の世界に潜っていった。

 日も暮れてきたので家に帰り、洗濯物を取り込んで、夕飯を作った。映画を観ながら夕飯を食べ、冷やしておいた缶ビールを開けた。明日を気にせずに酒を飲むことができることの贅沢さを噛みしめながら、結良は喉を鳴らして一気にビールを飲み干した。

 貯金通帳を開いた。稼いでもろくに使う時間もないまま貯めるだけ貯まっていた貯金額の印字を見て、結良は実感した。俺は無敵だ。今ならなんだってできる。

 結良は好きなアーティストのライブに参戦した。好きな俳優が主演の舞台を何度も観に行った。興味のあったオーケストラコンサートに行った。お遍路をした。そこかしこで出会った人たちはとても温かく、結良は自分がどれほど井の中の蛙だったのかを思い知った。

 やりたかったことを消化し続けて四ヶ月が経った。結良は、公園のベンチに座っていた。自由というのは限界があるということを知った。やりたいこともやらなくてはならないこともなくなってしまうと、自由というのはあまりにも暇だ。まさかたった四ヶ月であらかたやりたいことをやり尽くしてしまうとは。俺のやりたかったことってそんな程度のものだったのか。なにもやることのない自由ほど、頭がおかしくなりそうなことはない。

「そろそろ仕事探すか」虚空に向かって呟くも、どんな仕事を探せばいいのか結良にはわからなかった。「学校の先生は、もううんざりだ」

 無理矢理やりたいことを捻り出そうとしても、趣味と言えるものも、特技と言えるものも特に思いつかない。結良が自分に呆れていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。スマホを取り出し、画面を見ると、見知らぬアドレスからメールが届いていた。

『オープンワールドへようこそ! あなた専用のIDをお送りします。ログインして、制限のないこの世界を、自由に冒険しましょう!』

 オープンワールド?  そんなサイトに登録した覚えはない。しかし、最後の一文に目が留まり、結良は一気に興味を惹かれた。

『このメールは、自分のすべきことがわからない方に送信しています。将来のスケジューリングができている方は、このメールを破棄してください』

 誰にでも当てはまりそうな文句に、結良は苦笑した。遠い未来についてスケジュールを立てられている人など、一握りだろう。しかも計画通りに人生うまくいくとは限らない。

 ひとまず結良は検索サイトやSNS、口コミサイトで『オープンワールド』というサイトが信憑性のあるものなのかを調べた。どうやらまだ流行していない駆け出しのウェブサイトであり、ユーザーたちは思い思いに楽しんでオープンワールドを利用しているらしい。アカウントを乗っ取られただとか、金銭を騙し取られたなどといった報告は一切なく、むしろ大手の雑誌で紹介されていたり、お昼の情報番組で取り上げられたりしているようだ。

 どうせ暇なんだ、この陳腐な誘いに乗ってみるのもまた一興かもしれない。そう思い、結良はメールに添付されているURLをタップした。一見RPGゲームのようなドット絵のトップ画面が現れた。勇者と思われる二頭身のキャラクターが右を向いてその場で足踏みをしているGIFの横に、ユーザーIDの登録欄があった。結良はそこに、普段ユーザーIDを登録するたびに使っていた『yura1192』と入力した。足踏みをしていた勇者がてくてくと右に進み始めた。画面がどんどんスライドしていき、次第にドット文字が現れてきた。そこには【メインストーリー ミッション一:フィンランド行きの航空チケットを買う】とあり、その下に冒険者レベルと経験値、能力値、順位、アイテムといった項目が並んで記載されていた。能力値の下にはさらに体力、知力、運という項目まで書かれている。

「メインストーリー? ミッション? 冒険者レベルとか経験値とかはゲームで見たことあるけど、これはミッションをこなしていけばいいのか? オープンワールドに登録すると、みんな最初はフィンランドに行くものなのかな」

 なぜフィンランドなのだろうと、結良は疑問に思いながら公園を後にした。

 家のパソコンを起動し、フィンランドについて検索をする。修学旅行の引率でアメリカやニュージーランドにはいったことがあったが、北欧ともなると行ったことも触れたこともない。英語が通じるのかもわからない。

 検索結果に目を通すと、どうやらフィンランドは世界幸福度ランキング上位の国らしい。確かに退職してから好きなことをたくさんしたとはいえ、俺の心はまだ廃れているかもしれない。どうせやることがないなら、自分ではやろうとしないことをやってみよう。旅行代理店のサイトから、成田発ヘルシンキ行きの行程や費用を調べた。八日間で四十万円とちょっと。結構いいお値段だ。しかし、蓄えは十分ある。結良は予約画面に必要事項を淡々と入力し、予約を確定した。

 ソファに置いてあったスマホが震えた。予約完了メールが旅行代理店から届いたのかと思い、スマホを拾い上げると、画面に表示されていたのはオープンワールドからのメール通知だった。

【「フィンランド行きの航空チケットを買う」ミッションクリア 一〇ポイント獲得】

 結良はその場で固まった。なぜ航空チケットを購入したことがわかったのだろう。部屋を見回しても、誰かに見張られているわけでもなければ、隠しカメラも見当たらない。そもそも何者かが侵入した形跡すら見当たらない。カーテンも閉まったままだ。自分以外の人間の気配は、一切感じない。

「気味が悪いな」

 この部屋に住み始めて八年、今までに誰かに見張られているような感覚など一度も感じたことはなかった。一体なにが起こっているのだろう。

 結良は送られてきたメールの送信元のアドレスを見てみた。

 yura1192@openworld.com

「送信元のアドレスなのに俺のユーザーIDが含まれている? 普通こういうのって、一つのアドレスからそれぞれのユーザーに一括してメールが送られるんじゃないのか?」

 それぞれのユーザー専用のメールアドレスが用意されているなんてことがあるのだろうか。今はまだユーザー数は少ないとはいえ、それでもその人専用のメールアドレスを作るとなると、その数はすでに膨大だ。結良はそこで、自分がオープンワールドという得体のしれない奇妙な世界に心惹かれていることに気がついた。

 結良は、改めてメールの本文を読んだ。ポイントを獲得したようだが、それが一体どういうシステムなのか、まったく説明されていない。ポイントがどのような恩恵をもたらしてくれるのか、はたまた損害を与えてくるのか、結良はスマホでオープンワールドのウェブサイトを開いた。マイページは開かれたままで、さっきまでミッションが書かれていたところには、すでに新しいミッションが書かれていた。

【メインストーリー ミッション二:空港に行く】

 そしてその下に書かれていた経験値の欄に「一〇ポイント」、順位の欄に「五〇一七九位」とそれぞれ文字が浮かんでいた。獲得したポイントをタップすると、アイテムと思しきイラストが四つ表示された。「エナジードリンク」「お守り」「知の書」と、「?」と書かれた黒いモザイク。さらにそれらの下には交換できるポイント数が書かれていて、モザイク以外はどれも一〇ポイントのようだ。それぞれがどのような効果をもたらすのかはわからなかったが、結良はとりあえずエナジードリンクをタップしてみた。「ポイントと交換する」を選択したが、特になにも変化は起こらない。結良がもう一度マイページに戻ると、体力値が五、運がマイナス五となっていた。だからといって、勇者のGIF自体に変化はない。しかし、心なしか結良自身は少し元気になったような気がしていた。これがプラシーボ効果か。結良は苦笑いを漏らし、スマホを置いた。

 再びパソコンに目を戻し、フィンランドの観光名所を調べることにした。オープンワールドの能力値にはなかったが、結良のわくわく値も一気に上昇していた。

 藍色の絵の具を溶かしたかのように夜が更けていた。フィンランド行きの航空券を握りしめて、結良は空港内を闊歩した。ここまできたら、もう行くしかない。フィンランドに行くからにはいろいろなことを経験したい。日本と違う文化を目の当たりにして驚きたい。自分の中の当たり前を覆したい。結良は、期待による胸の高鳴りなのか、不安による動悸なのかがわからずに震える心を、なんとか宥めようとした。

 空港を闊歩する人々は、それぞれの行き先に向かって大きなスーツケースを転がしながら歩いていく。彼らはどこに行くのだろう。行き先は自分で決めたのかな。それともオープンワールドのミッションなのかな。そんなことを考えながら結良は国際線ターミナルに向かった。すれ違う人々の物語を妄想する。背中のリュックを背負い直し、スーツケースを転がす。飛行機が離陸するまであと一時間弱あるが、余裕を持って搭乗手続きをしよう。ポケットのスマホが震えた。

【「空港に行く」ミッションクリア! 三ポイント獲得!】

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