海の向こうの妙なる調べ

原ねずみ

第1章 王子様を助ける

1-1

 海を潜っていくと、人魚たちに会うことができるだろう。そう、彼らはたしかに存在するのだ。上半身は人間、下半身は魚。海の中で、魚たちと、楽しく愉快に暮らしている。


 愉快、というのは全くそうで、人魚とは本来、楽天的な生き物なのだ。彼らは楽しいことが好きで、あまり深く思い悩まない。けれどもここに――珍しく悲しみにくれる人魚がいた。


 15歳になる少女の人魚だ。名前はビビという。けれども人魚は10歳で独り立ちするので、15となるともうよい歳だ。ともかく、ビビは悲しんでいた。


 海底の岩に顔を伏せるようにもたれかかり、しくしくと泣いていた。黒く長い髪が揺れている。そばにはビビよりもいくぶん幼い、少年の人魚がいた。


「ビビ様、元気を出してくださいよ」


 少年はそう声をかけた。ビビは鼻をすすると顔をあげて、困った表情の少年を見た。


「そうは言っても悲しいのは悲しいの。お姉様が結婚するなんて……」


 そこまで言って、ビビはまた涙をぬぐった。少年――名前をカイといった――は小首を傾げて、ビビを慰めた。


「でももう二度と会えないわけではないんですよ。引っ越しはするけど、近くなのです。これからもちょくちょくこちらへやってくるでしょう」

「そうだけど!」


 ビビはぴしゃりと言った。カイの言うことはたしかにその通りなのだ。それはわかっている。わかっている……のだけど……。


 ビビは6人姉妹の末娘だ。父親はこの辺り一帯の人魚を支配するボス。すでに書いたように人魚たちは10歳で独り立ちするので、6人の姉妹はみなばらばらに暮らしている。けれども6人みな仲良しだ。


 ビビは特に、一番上の姉が好きだった。名前はルウ。評判の美貌を持つ姉だ。性格は人魚らしく陽気で楽天家。そして自由奔放だった。一人であちこちに出かけて、そこでの楽しい体験をよくビビに話してくれた。


 またビビもルウと一緒にちょっとした冒険を楽しんだ。その姉が……結婚してしまうのだ。ここから離れて少し遠くに暮らすことになる。姉はビビのところに遊びに来るとは言っているけれど、そう頻繁ではないだろう。


「……お姉様が遠くにいってしまう……。あたしの手の届かないところへ」


 ビビがしんみりと言った。すかさずカイが否定する。


「そんなこともないでしょう」

「お姉様とたくさん楽しいことをしたわ……。あ、そうだ、まだお姉様と海の上に行ってない!」

「海の上は一度行ったことがあるでしょう」

「一人でね。それも一度だけ」

「何度も行きたいところですか?」


 陸地にはもちろん人間が住んでいる。けれども人魚と人間の間にほとんど交流はなかった。たいていの人魚は、陸地にも人間にも大して興味を持たない。


「まあそんなに面白いところではなかったけど」


 ビビは一度だけ見た海の上の世界を思い出しながら言った。それは昼間だった。明るい太陽がさんさんと照り付けてとても眩しかった。今まで自分を守っていてくれた海がなくなり、どうにも不安な気持ちがした。陸の上には人間たちの住まいがいくつかあった。けれどもビビはそれをよく観察することもなく、人間の姿を見ることもなく、たちまち海に戻ったのだ。


 でもお姉様は違うわ。と、ビビは思った。お姉様は勇敢だもの。お姉様は綺麗な月の晩には海の上に行って、歌を歌うんだって言ってた。……考えてみれば、行った時間帯が悪かったのかも。あたしは昼間だった。なにもかもが眩しすぎたのよ。


「僕もいっぺん行ったことがあります。でもいっぺんで十分ですよ。そうそう、人間を見ました。あれは奇妙な生き物ですね」


 ちょっと顔をしかめてカイは言った。ビビもカイの意見に同意した。


「わかるわ。へんてこな生き物よね。あたしたちとは顔も違うし……」


 ビビは絵に描かれた人間を思い出しながら言った。海の世界に紙の本はないが、岩に絵を描いたりはするのだ。


「それにあの足」


 しかめ面のままカイが言う。ビビもまた勢いよく相槌を打った。


「そうそう! あれはどうなってるの?」

「あれを前に前に動かして地面を歩くんですよ。実際に見てみるとなかなか滑稽で面白いですよ」


 ビビは段々と人間の実物を見たくなってきた。ああ、お姉様と海の上に行ってみたい……。


 姉が嫁ぐのはもう少し先のことだ。その前に一緒に行けるだろうか。


「人間の作った話の中には人魚の姫が人間に恋をするものがあるそうです。でもそんなことありえないですよね。あの奇妙な生き物に恋心など抱きようがない」


 カイの言葉にビビは頷く。


「そうね」

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