第30話 触れた名前——白紙が奏でる小さな音
翌日の放課後は、昨日よりも静かだった。廊下を歩く生徒たちの声も、どこか落ち着いていて、文化祭の余韻がようやく日常に溶け始めている。
陽介は教室を出て、鞄を肩に掛けながら深く息を吐いた。今日こそ、ちゃんと向き合う。
胸の奥に残っていた揺れは、昨日よりも形を持っている。いつまでも白紙に置きっぱなしにできない思いが、静かに内側から背中を押していた。
昇降口へ向かう途中、足音が軽く近づいてきた。
「先輩、今日もお疲れさまです!」
結衣だ。昨日より髪を少しだけまとめていて、何か言いたげにこちらを見ている。
「ああ、お疲れ。……帰ろうか、一緒に」
「はい!」
笑顔がふわりと広がり、二人は並んで昇降口を出た。
校舎を出ると、夕風がゆるく頬を撫でた。太陽は沈みかけで、空はオレンジから薄紫に変わる途中だった。
「先輩、今日……なんか落ち着いてますね」
「そうか?」
「はい。昨日より、ずっと」
結衣は歩幅を合わせながら、ちらりと横を見る。
「……整理、できたんですか?」
その問いは優しくて、けれど核心を突いてくる。
陽介は少しだけ息を吸って、正直に答えた。
「全部じゃないけど……向き合う準備はできた気がする」
「なら……よかったです」
結衣はほっとしたように笑い、足元の影がふたり分長く伸びていく。
「先輩、例の"ノート"……昨日書いてたんですよね?」
思わず足が止まる。
「……気になるか?」
「気になりますよ。ずっと先輩を支えてたんですよね、そのノート」
支えてた。その言い方に、陽介の胸の奥が小さく揺れた。
「でも……最近の先輩、ノートより、自分の言葉で話してる気がして」
「……そうかもな」
「だから……もし先輩が言えるなら、少し聞きたいなって思って」
無理には踏み込まない。けれど待つ姿勢を見せてくれる——それが結衣らしい、と陽介は思った。
夕焼けの色が二人の影に混ざり、住宅街の入り口まであと少しのところで、陽介は立ち止まった。
「結衣」
「……はい?」
「俺さ……ずっと誰かに頼ってた」
結衣のまなざしが、静かに陽介を捉える。
「文化祭のときも、普段の生活でも、苦しいときは……"ある言葉"を頼りにしてた」
「言葉……?」
陽介は深呼吸した。
「ノートの……青い文字だ」
結衣が小さく瞬きをする。
「青い文字……」
「"焦らなくていい"とか、"落ち着け"とか……俺のことを、ずっと支えてくれた言葉。その筆跡を、文化祭の日に見かけたんだ」
胸の奥が、ゆっくりと熱くなる。
「気のせいかもしれない。でも……どうしても、同じ"気配"がしたんだ」
絞り出すように続けた。
「それが……亮介の字に見えた」
言った瞬間、胸の深いところで何かがほどけた。
「亮介……って、先輩の……」
「……ああ。ずっと俺の中にいて、俺を助けてくれてた……大切な人だ」
結衣は驚いたように少しだけ目を見開いたが、すぐに表情を和らげた。
「……あの、"兄弟みたいな存在"ですね」
「怖くないのか?」
「全然。……むしろ、知れてよかったです」
言い切るその声があまりにまっすぐで、陽介は息を呑んだ。
「先輩が"ふたり"で歩いてきた時間があったから、今の先輩がいるんですもん」
胸がじわりと温かくなる。
「でも……」
「でも?」
「今、隣にいるのは先輩なんですよね」
結衣は少しだけ照れたように笑い、言うべき言葉を確かめるようにゆっくり言った。
「私、ちゃんと……先輩の言葉で助けられました」
胸に、ぎゅっと何かが込み上げてくる。俺はもう、自分の言葉で立てているのか。
「あのノートに……昨日、書いたんだ」
「なんて書いたんですか?」
「"亮介。向き合う準備ができた"って」
結衣はそっと笑った。
「素敵な言葉ですね」
「……ありがとう」
沈黙が落ちた。でも、それは以前のような苦しい沈黙じゃなかった。夕風に乗ってふわりと揺れる、優しい静けさだった。
分かれ道の前で、陽介は立ち止まり、夕陽を背景にした結衣を見た。
「結衣。……話聞いてくれて、ありがとうな」
「いえ。私こそ。先輩が"言いたかったこと"を話してくれて……嬉しかったです」
結衣は小さく会釈して言った。
「じゃあ……また明日ですね。先輩」
「ああ。明日な」
結衣の背中が角を曲がって見えなくなるまで、陽介はそこに立っていた。
家に帰ると、ノートを開く前に、机の前でしばらく目を閉じた。
ページをめくる。
また白紙。
けれどその余白は、もう意味のない空白ではなかった。
陽介はペンを置き、静かに書く。
——「今日、ようやく言えた」
——「結衣にも、亮介にも、そして……俺自身にも」
——「もう隠れなくていいと思えた」
その一行を書いたとき、胸の奥がかすかに震えた。亮介。次は、おまえに話す番だ。
陽介はそっとページを閉じ、深く息を吸った。
白紙は何も言わない。でも今日の沈黙には、確かに答えがあった。
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