第22話 触れられなかった揺れと、隣で響いた声
文化祭最終日の午後は、昨日までとは比べものにならないほど人が押し寄せていた。廊下も展示スペースの前も、途切れる気配がない。部長の呼び込み、吹奏楽部の音、模擬店から漂う匂い――全部が混じり合って、校舎全体がひとつの音みたいに鳴っていた。
「次の方、カードはこちらから選んでください」
結衣の声は、喧騒の中でもよく通っていた。昨日一度言葉を失いかけた子だとは思えない。説明文の読み上げも、カードの案内も、どれも落ち着いていて、聞いていて自然と安心する。
ほんとうに、強くなった。
そんなことを思いながら、陽介も来場者に向き直る。
「この真ん中の帯は、"言葉"をテーマにしてます。書きたいものがあれば、好きな位置に貼ってください」
今日だけで何十回も言った説明なのに、喉は不思議と持っていた。ただ胸の奥だけが、朝からずっとざわついている。
青いカード。
昨日の「ページの反り」。
そして、最終日の朝に見つけた新しい一枚の言葉。
気のせいなんだろうけど――そう言い聞かせても、胸のざわりは引っかかったままだった。
「先輩、お疲れじゃないですか?」
結衣がそっと水を差し出してくる。
「ああ……ありがとう」
「さっき、説明の途中でちょっと止まってましたよね。大丈夫でした?」
「……あれは、たぶん喉が乾いてただけだよ」
笑ってごまかすと、結衣も「ならよかった」と微笑んだ。ほんの少し、距離が近い気がする。
午後三時ごろ、来場者が一瞬だけ途切れた。陽介は緩んだ喧騒の隙間を縫って、真ん中の「言葉の帯」を見つめる。
昨日より色が増えて、変化のように流れが生まれていた。その中央あたりに――あれも、まだある。
青いカード。
昨日見つけた、どこかで見たような筆跡のもの。
そして今朝見た"新しい一枚"の場所もそのままだ。白いカードに整った文字。
――「迷ったら、一度止まれ」
自分に向けられているなんて、ありえない。知らない誰かが書いた言葉に決まっている。
そう思うのに、視線がどうしても離れなかった。
なんで……俺、こんなに気にしてるんだ。
「陽介先輩」
すぐ横で呼ばれて、はっとする。
「大丈夫ですか? ずっと帯ばっかり見てて」
「あ、いや。バランスどうかなって思って」
「……ふふ。先輩って、ほんと真面目ですよね」
結衣は短く笑い、並んでボードを見上げた。
「……でも、今日の先輩、ちょっとだけ怖かったです」
「え?」
「説明してるのに、どこか遠くにいる感じがして」
胸が一瞬跳ねた。結衣の言葉は、陽介の胸の奥に直に落ちてくる。
そう見えてたのか。
自分でも気づいていた"揺れ"。隠したつもりでも、隣にいる彼女には伝わっていたらしい。
「……ごめん。気をつける」
「謝らなくていいですよ。先輩は先輩です」
結衣はそう言って、少し照れたように目をそらした。
「でも……もし言いたいことあったら、言ってください。聞くくらいはできますから」
その言葉が妙に胸に沁みた。こんなふうに"言葉を待ってくれる"人がそばにいるなんて、ほんの少し前の自分なら想像もできなかった。
残り時間、説明は続いた。人が増えても、結衣との息は自然にそろっていった。話すリズムも、カードの差し出し方も、まるで長く一緒にやってきたみたいに噛み合っていた。
夕方、最後の来場者が帰ると、展示スペースに静けさが戻った。結衣は肩で小さく息をつきながら、陽介を見上げる。
「今日の先輩……なんか、すごかったです」
「そうか?」
「はい。途中で止まっても、すぐ戻って……。私、見てて安心しました」
陽介は返事ができず、小さく息を漏らすだけだった。
安心……か。
その言葉は、胸の奥のざわつきをほんの少しだけ和らげた。
展示の片付けを終え、校門で結衣と別れたあと、陽介は家へ向かう道の途中で空を見上げた。夕焼けの色がゆっくり滲んでいく。
俺も、もう少しだけ言えるようになりたい。
それが誰に向いているのか、まだ答えは出ない。でも、言いたい気持ちが確かに胸の中にあった。
家に帰って、机にノートを置く。今日も、開くのが少し怖い。けれど、逃げたくもなかった。
ページをめくる。
――白紙。
「……だよな」
陽介はかすかに笑って、ゆっくりとページの端を撫でた。昨日のような妙な反りは、もう感じられない。それでも、どこかに"気配"が残っているようで、不思議と落ち着いた。
今日は……書けるところだけ書こう。
そう思い、ペンを持つ。
――「今日は、結衣がすごく頼もしかった」
――「俺は……まだ揺れてる。でも逃げない」
――「明日、ちゃんと自分で言えるようになりたい」
書き終えると、胸のざわつきがゆっくりと薄れた気がした。
白紙のノートは返事をくれない。それでも――今日はその沈黙が、少しだけ心強かった。
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