第13話 文化祭の朝と、最初の言葉

 文化祭の朝は、いつもよりざわついていた。校門をくぐった瞬間、焼きそばの匂いとリハーサル中の音響が混じり合う。昇降口の前では、装飾を抱えた生徒たちが忙しなく動き回っていた。

陽介はその喧騒の中を歩きながら、肩にかけた鞄の重みを意識する。中にはノートが入っている。けれど今朝は、開かずに家を出てきた。

(今日くらい……自分でやらなきゃ)

そう思うと、胸に小さな緊張が膨らんでいく。


「陽介先輩、おはようございます!」


振り向くと、結衣が名札を指で押さえながら笑っていた。文化祭仕様のネームプレートが、いつもより少しだけ大人びて見える。


「ああ……おはよう」

「今日、すごく楽しみですね。展示、きっと人来ますよ」


陽介は「だといいけど」と笑い返した。その笑みの裏で、心臓が少し跳ねる。

放課後の準備とは違い、"本番"は雰囲気がまるで違う。控室へ向かう廊下には呼び込みの声が響き、ポスターを配る生徒たちが行き交っていた。結衣は台本を抱え、指先で紙の端をそっと押さえている。


「先輩、緊張してます?」

「……まあ、ちょっとだけ」


その言葉に、結衣は小さく笑った。


「私もです。でも、昨日先輩に言ってもらったので、少し落ち着きました」


(俺の言葉で……か)

温かさが胸に広がる。その感覚を抱えたまま、二人は展示スペースへ足を運んだ。

昨日調整したボードが、朝の光を受けてやわらかく輝いている。三種類のカードは並べただけなのに、どこか美しかった。陽介は無意識に息を呑む。


「……なんか、ほんとに"作品"って感じですね」


結衣の声に、陽介も小さくうなずいた。

(ここまで来たんだな……俺)

そう思った瞬間、背中に誰かが触れたような気がした。振り返っても誰もいない。気のせいだと分かっていても、その一瞬の温かさはどこか懐かしかった。

やがて開場の時間になり、最初の来場者が姿を見せた。教師と数人の後輩生徒の小さなグループだ。


「じゃあ……陽介、お願いな」


部長に背中を押され、陽介は前へ出た。手のひらに汗がにじむ。深呼吸を一度して、声を出す。


「あ、あの……こちらの展示は、"言葉の帯"をテーマにしていて……」


思ったより声が震えた。次の言葉を続けようとして、舌がうまく回らない。一瞬だけ詰まる。


「す、すみません……」


横で結衣が心配そうにこちらを見て、一歩出ようとした。その瞬間、陽介は小さく手を振る。


「大丈夫……言わせて」


自分でも驚くほど静かな声だった。

もう一度、視線を来場者に向ける。今度はゆっくり、言葉を選ぶように話す。


「三種類のメッセージカードを用意しているので、好きな色や形を選んで書いてみてください。貼る場所も自由です。……言葉って、形が違うだけで、伝わり方が変わると思うので」


最後まで話し終えたとき、胸に温かいものが広がった。


「いい展示ですね」


教師の言葉を聞いて、陽介はほっと息を吐く。結衣が横で小さく拍手をした。


「先輩、すごかったです。途中で詰まったけど……ちゃんと最後まで言えてました」

「……噛んだけどな」

「それでも、伝わってましたよ」


その笑顔に、陽介は照れくさくなりながらも、緊張がすっと軽くなるのを感じた。

来場者が立て続けに増えていき、展示スペースの周りが少しずつにぎわってくる。陽介は説明を続けながら、心のどこかで思った。

(……亮介。俺、できたよ)

ポケットの中にはノートがある。けれど今日は、開かなくていい。

白紙のページに怯えていた自分が、ほんの少しだけ遠くなった気がした。

(これからも……自分の言葉で、やっていけるかな)

小さな問いが胸に残りながら、陽介は次の来場者に向けて深く息を吸った。

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