第11話 影の気配と、ふいに届いた言葉

 翌朝、校舎に向かう足取りは軽いはずなのに、胸の奥に薄くざわつきが残っていた。**文化祭まで、あと一日。**廊下を歩く生徒たちの声は弾んでいて、黒板の前で準備を指示する先生の声もどこか浮き立っている。

そんな空気の中を歩きながら、陽介は鞄の中のノートの存在を意識した。今朝も開かずに家を出てきたけれど、ページの白さを想像するだけで胸が少しだけざわつく。

(今日は……開かないでおこう。落ち着かないし)

そう決めたはずなのに、背中に薄い影のような違和感が張りついて離れなかった。

昇降口の前で、結衣がこちらに気づいて微笑んだ。


「おはようございます、陽介先輩」

「ああ……おはよう」


声は出た。けれど、結衣は少し首をかしげる。


「今日、なんか静かですね」

「そう? 別に普通だよ」


言ってから、自分でその“普通”にどれくらい自信があるのか分からなくなる。胸の奥で、言葉にならない波が小さくうねった。


***


放課後の部室は、昨日とは違う種類の緊張があった。文化祭の準備も大詰めで、画用紙の束、糊、テープ、作業途中のカードが机いっぱいに広がっている。


「よし。今日は展示スペースの仕上げだ」


部長の声に全員が頷く。

結衣は昨日より落ち着いていて、作業の手つきも丁寧だ。陽介が声をかけると、彼女は明るく返した。


「昨日、陽介先輩が言ってくれたから、なんか落ち着けるようになりました」

「……そっか。ならよかった」


そう答えながらも、胸の奥のざわつきは消えない。

(俺、そんなに落ち着いて見えたのかな)

その疑問が喉に引っかかったまま、陽介はカードの束を整えた。

展示スペースに移ると、全員でボードの配置を確認する。昨日決めた並べ方は順調だった。けれど――。


「陽介先輩、これ……昨日より曲がってませんか?」


結衣が遠慮がちに指さした。確かに、中央の列が、ほんのわずかだけ傾いている。

部長が近づいて眉をひそめた。


「ホントだ……誰かが荷物置いたか?」


軽いざわめきが走る。陽介は心臓が少しだけ跳ねるのを感じた。胸の奥で、何かがざわりと動いたような気がする。

(こんなとき……前なら)

“落ち着け”と書かれた文字が脳裏に浮かぶ。でも、今は白紙のままだ。

大きく息を吸って、陽介はしゃがみ込んだ。ボードの脚を軽く押して角度を見て、カードの並びを目で追っていく。


「これ……下のスペーサー、少しずらせばまっすぐ戻るかも」


言うと、先輩が道具を持って屈んだ。


「やってみるか」


角度を調整して、列を縦基準に揃え直していく。作業は地味だが、全員が息を合わせて動いた。

結衣が横でそっと言う。


「先輩……なんか、すごいです。最近」

「え?」

「前より……頼りになるっていうか。安心する感じです」


陽介は視線を落として、照れ隠しのように笑った。


「そ、そうかな」


けれど胸の奥のざわつきは、むしろ強くなっていた。

(亮介がいたら……今の俺をどう思うんだろ)

そんな考えが、不意に頭をよぎる。


***


片付けを終え、廊下に出ると外は夕暮れだった。窓から差し込むオレンジ色の光が床に長く伸びる。


「陽介先輩、今日……ちょっと変でしたよね」


結衣がぽつりと言った。


「え? そう?」

「うん。少しだけ……“遠くにいるみたい”でした」


曖昧な言葉なのに、妙に胸に刺さる。陽介は苦笑した。


「疲れてただけだよ。ごめん」

「……無理してませんよね?」


その声が、思った以上に優しかった。


「困ってたら言ってください。私でよければ、ですけど……」


陽介は一瞬だけ息が詰まった。

(困ったら……亮介に書いてたのにな)

それは誰にも言えない思いだった。だから、陽介は短く「ありがとう」とだけ言った。


***


夜。部屋に戻ると、机の上のノートが月明かりに照らされていた。

陽介は迷いながらページを開いた。


――白紙。


覚悟はしていたはずなのに、胸がきゅっと痛んだ。

(なんで……返事くれないんだよ)

けれど、以前みたいに“助けてほしい”とは書けなかった。代わりに、静かにペンを走らせた。


――「今日、ちょっと変な感じがした。自分がどうしたいのか、よくわからない。亮介……何か教えてほしい。」


書き終えたあと、陽介は一行だけ強い字で足した。


――「でも、自分のこと……自分でわかりたい。」


ノートを閉じると、胸の奥で何かがゆっくり沈むように落ち着いた。

ベッドに横になって目を閉じる。すると、不意に“誰かがそっと背中に触れたような”温かい感覚がした。

(……亮介? それとも、俺自身?)

答えはわからないまま、陽介は静かに息を吐いた。

明日は、今日より少しだけ前へ進めるだろうか。その問いだけを胸に残して、陽介はまぶたを閉じた。

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