第14話 光のなかの証(マタニティフォト)
産院の廊下を一歩入ると、ほのかな石鹸の香りと温かい空気が迎えた。窓際の小さな撮影室には、柔らかい自然光を模したライトが用意されていて、カメラマンが最後のチェックをしていた。
莉緒は白いガーゼのローブを羽織り、助産師の手を借りながらゆっくりとスタジオの真ん中に立った。丸く膨らんだお腹がライトにやさしく照らされ、影と光が肌に薄い絵画のような陰影を描く。
「緊張しますか?」
カメラマンは落ち着いた声で笑いかける。三十代後半くらいだろうか、柔らかな物腰で、シャッター音も優しいリズムになりそうな人だ。
「ちょっと……恥ずかしいです」莉緒は照れ笑いで俯いた。胸の奥にふわりと浮かぶのは、不安というより祝福に近い感覚だった。
「大丈夫ですよ。自然体で、今のふたりの空気を撮りましょう」
瑛士は莉緒のそばに立ち、ぎこちなくも誇らしげに彼女の手を取った。スーツの襟は整っているが、その瞳は仕事場とは違う柔らかさを湛えている。
「瑛士さん、莉緒さん、まずは座ってリラックスした感じでお願いします」
カメラマンの指示でソファに腰を下ろす。瑛士はゆっくりと莉緒を抱き寄せ、彼女のお腹にそっと手を当てた。体温が伝わり、ぽこんと小さな胎動が返る。二人ともその動きに目を細める。
「感じた?」瑛士が囁く。
「うん。今、来た」莉緒の声は小さく震え、だが嬉しさが溢れている。
「いいですね、その表情のまま……はい、カシャ」
シャッター音が一度、二度、優しく響いた。
撮影はゆっくり進んだ。立ちポーズ、座りポーズ、ライトを背にしたシルエット、ソファに寄り添う自然なショット。カメラマンは細やかな言葉で二人の動きを導き、瑛士は時にぎこちなく、時にとても自然に莉緒を支えた。
「もう少し顎を引いて、莉緒さん、瑛士さんの肩に寄せて」――その度に、ふたりの距離が少しずつ緩み、表情が柔らかくなっていくのが分かる。
撮影の合間、カメラマンが小さな画面を二人に見せた。
モニターに映るのは、温かな光のなかの二人。瑛士の大きな手がお腹を包み、莉緒の穏やかな笑顔が光を受けて輝いていた。
「綺麗……」莉緒は息を呑む。自分の写真に、どこか現実と夢の距離があった。
「君、ほんと綺麗だよ」瑛士は本気でそう言った。照れ隠しの笑いもなく、ただ真っ直ぐな称賛だった。
「ねえ、写真って残るでしょう?」莉緒が小声で尋ねる。
「うん。将来、子どもたちに見せたい。僕たちがどんな顔で迎えてくれたか、伝えたい」瑛士は少し考えてから続けた。「ここで過ごした時間も、全部大事にしたいんだ」
「私も。こんなに不思議で、幸せで、怖さもあるけど、でもやっぱり大事」莉緒はお腹に手を当て、五つの鼓動をひとつずつ思いながら言葉を選んだ。
カメラマンがふたたびカメラを構える。
「じゃあ、ラストにちょっと遊びを入れましょう。お二人の自然な笑顔をください」
瑛士は小さく息を吐き、意識的に力を抜いた。そこで起きたのは、普段の緊張を解いた瞬間にのみ現れる穏やかなやりとりだった。
「ねぇ、もし誰かが“名前はどうするの?”って聞いたらどうする?」瑛士がふっと笑って言う。
「まだ決められないよ。みんな会ってからって言ってるでしょ」莉緒は恥ずかしそうに微笑む。
「じゃあ仮名をつけようか。長男は“はる”、次男は“りつ”…」
「ちょっと、そんなに簡単に呼ばないでよ!」莉緒が顔を赤らめて突っ込む。二人のやり取りに、カメラマンもにんまりと笑った。
撮影が進むうちに、ふたりの会話は自然に深くなっていった。瑛士は時折、静かに莉緒の顔を覗き込み、昔の自分では決して見せなかったような柔らかい表情を見せる。莉緒はそんな彼を見て、胸がいっぱいになった。
「ねぇ、覚えてる? 最初に飲み会で会ったときのこと」莉緒がふいに言う。
「覚えてるよ。君がこぼしたとき、俺は内心どうしようかと……」瑛士が苦笑する。
「それで、その夜に……」莉緒は言葉を濁すように笑ったが、二人の間に共有される記憶があたたかく寄り添った。
スタジオの空気は柔らかく、時間はゆっくり流れる。カメラマンが「あと数枚で終わりにしましょう」と告げると、ふたりは自然に並んで立ち、お腹に手を当てて深呼吸をした。そこに、ほんの少しの緊張と大量の愛情が混ざっているのを感じた。
最後に、セルフタイマーを使って二人の「家族写真」を撮ることにした。三脚を立て、カメラのタイマーをセットして、ふたりは互いに顔を寄せ合った。シャッターが切れるまでの数秒は、言葉にできないほど濃密な沈黙だった。
「せーの」――小さな掛け声に続き、カメラがシャッターを切る。暗転のように一瞬、世界が静止したように感じられた。
撮影後、カメラマンがモニターでその写真を見せる。そこには、青白いライトの中で寄り添う二人と、二人の手に包まれた丸いお腹が写っていた。ふたりの表情は穏やかで、眉間に寄る影さえも優しく見えた。
「これ、すごくいいよ」カメラマンが言う。
莉緒は目に涙を溜め、そっと笑った。胸がきゅっとなるような幸福がそこにあった。
「ねえ、瑛士。ありがとう」莉緒の声は震えていた。
「何の?」瑛士がすぐに答える。彼は涙で揺れる瞳を見せず、ただ静かに莉緒の手を強く握った。
「今日ここに来てくれたこと、写真を撮ってくれたこと、それから……あなたが変わってくれたこと」
瑛士は少し照れたように笑い、しかし真剣に言った。
「莉緒、君とこの命たちのためなら、俺は何でもする。これからも、ずっと」
言葉は飾り気がなく、しかし重かった。莉緒はその言葉を胸にしまい、深く頷く。
スタジオの窓から外を見れば、冬の光が低く柔らかに伸びていた。落ち葉がゆっくりと舞い落ちる。世界は変わりゆくが、今この瞬間だけは確かに止まっている気がした。
撮影が終わり、ふたりは写真データを受け取った。封筒にはプリントとデータのURL、簡単なコメントカードが添えられている。帰り支度をしていると、助産師がそっと近づいてきた。
「お疲れさまでした。今の莉緒さん、とても穏やかで素敵でしたよ」
「助産師さん……ありがとうございます」莉緒は礼を言い、瑛士も低く礼を返した。
車に戻ると、瑛士はハンドルを握りながら、ふと低くつぶやいた。
「今日の写真、家に戻ったら壁に飾ろう。毎朝見るんだ」
莉緒はその言葉に笑って首を振る。
「朝起きて、瑛士が写真に向かって“今日もお願いします”って言うの?」
「それ、ちょっと恥ずかしいけど……やるかもな」瑛士は悪戯っぽく言い、莉緒はふっと笑った。
夜、病院のベッドに戻った莉緒は、薄暗い室内で写真の一枚を開いた。そこには、今日の光景が静かに封じられている。彼女は写真を胸に当て、目を閉じた。お腹の中で小さな鼓動がリズムを刻む。それは未来への確かな拍動だった。
「ねえみんな、今日パパと写真撮ったよ」莉緒は囁く。ポコン、ポコンと答える胎動が、まるで小さな祝福の拍手のように感じられた。
外では冷たい風が枝を揺らす音が聞こえ、遠くの街灯が一つずつ灯っていく。二人の作った光と影は、これから始まる日々の最初のしるしとして、ゆっくりと心に刻まれていった。
【次回第15話】
「帝王切開の日程が正式決定。
家族への報告と、出産に向けた静かな夜」
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