第9話 小さな命たちの鼓動

 病室の窓から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。

 カーテン越しに透ける光は淡く、まるで季節の移ろいをそっと告げているようだった。

 外では木々が赤や黄色に色づき、風が通るたび、はらはらと葉が舞い落ちていく。


 「おはよう、瑛士」

 ベッドの上で莉緒が微笑む。

 その頬は少しだけ青白いが、目の奥には確かな強さがあった。


 「おはよう。体調は?」

 「うん……少し眠れた。昨日よりもお腹が重くて、みんな元気に動いてるみたい」

 「……五人全員、暴れてるのか」

 「ふふ、そうみたい。まるで運動会」


 そう言って莉緒が小さく笑うと、瑛士も同じように口角を上げた。

 「頼もしいな。君に似たのかも」

 「え? 私?」

 「うん。負けず嫌いなところ」

 「……それ、瑛士でしょ」

 二人の視線が合い、少し照れたように笑い合う。


 そんな穏やかな時間の中、看護師がノックをした。

 「おはようございます。今日は心音のチェックですよ」

 その言葉に、莉緒の胸が小さく跳ねた。

 五つ子の心音を聞く――それは、いつだって特別な時間だった。


***


 検査室へ移動すると、白衣の医師が穏やかな笑顔で迎えた。

 「お父さんもご一緒ですね。前回から少し時間が経ちましたね」

 「はい。今日を楽しみにしていました」

 瑛士は少し緊張した面持ちで答える。

 莉緒はベッドに横たわり、ゆっくりと息を整えた。


 冷たいジェルが、お腹に塗られる。

 「ひゃっ……冷たい……!」

 「ごめんなさいね、すぐ温まりますから」

 医師の声に、莉緒はくすくすと笑った。

 隣では瑛士がタオルを握りしめながら見守っている。

 彼はいつも通り、無骨で不器用だが、その目には深い優しさがあった。


 医師が超音波のプローブをあてると、静かな部屋の中に――

 トットットット……トットットット……

 という小さな音が響き始めた。


 「これが……?」

 「お一人目のお子さんの心音ですよ」

 瑛士は息を飲んだ。

 莉緒の手をそっと握る。

 その温もりの向こう側で、確かに“生きている”命が動いていた。


 「すごい……こんなに小さいのに、ちゃんと心臓が動いてる」

 莉緒が呟く声が震えていた。

 「トットットット……」

 その音は速く、けれど規則的で、まるで小さな太鼓のようだった。


 医師が少し探るようにプローブを動かす。

 「次は二人目です」

 スピーカーから、少し違うリズムが流れる。

 ピッピッピッピッ……

 軽やかで、少しせっかちな鼓動。

 「この子は元気いっぱいですね」

 「たぶん瑛士似だね」

 莉緒の冗談に、瑛士は照れくさそうに眉を下げた。


 「三人目は……おっとりしてますね」

 ドッドッドッド……

 穏やかで、どこか包み込むような音。

 「四人目は少しリズムが速い。五人目は、強い跳ね方をしています」


 トットットッ……ピピピ……ドッドッ……

 五つの音が重なり合い、ひとつの旋律のように響き合う。

 それはまるで、見えない指揮者の下で小さな命たちが合奏しているかのようだった。


 莉緒はその音に耳を傾けながら、涙を浮かべた。

 「どの子の音も……違うんだね」

 その声は震えていた。

 「一人ひとり、違うテンポで生きてる」


 瑛士は静かに頷き、莉緒の耳元で囁いた。

 「全部、君の命の音だよ」


 莉緒は目を瞬かせ、彼を見上げた。

 「私の?」

 「君が生きてるから、みんな生きてる。

 君の体の中で、五つの心臓が育ってるんだ」

 「……そんなふうに言われたら、泣いちゃうよ」


 涙が頬を伝い、ジェルの光に反射してきらめいた。

 瑛士はその涙を指でそっと拭い、微笑む。

 「泣いていいよ。強い母親でも、涙はきっと命の証だ」


***


 検査が終わると、医師は微笑みながら言った。

 「どのお子さんも順調です。心拍も安定しています。お母さんの体調管理が上手ですね」

 「ありがとうございます」

 莉緒は深く息をつき、安堵の笑みを浮かべた。

 その横で、瑛士も静かに頭を下げる。


 病室に戻ると、窓の外はすっかり午後の光になっていた。

 陽射しが柔らかく、紅葉の木々がオレンジ色に染まっている。

 風に乗って一枚の葉が舞い込み、床にひらりと落ちた。


 「……もう秋なんだね」

 莉緒が窓の外を見つめながら呟いた。

 「ついこの間まで夏だったのに」

 「そうだな」

 瑛士が窓辺に立ち、空を見上げる。

 「今年の秋は、いつもより静かに感じる」

 「うん……でも、私の中は騒がしいよ。五人分の鼓動があるから」


 その言葉に、瑛士の目が優しく細まった。

 「……いい音だったな」

 「うん。命の音って、こんなに綺麗なんだね」

 「生きてる音、だ」

 「……うん。生きてる」


 瑛士は椅子に腰を下ろし、莉緒の手を包み込む。

 「この手があれば、全部守れる気がする」

 「守るって、簡単じゃないよ?」

 「分かってる。でも、君と五人がいれば、俺は何だってやれる」


 莉緒は笑いながら目を細める。

 「……ほんと、犬みたいだね」

 「またそれか」

 「だって、ずっと私のそばにいるんだもん」

 「そばにいないと、落ち着かない」

 「ふふっ」

 笑い声が重なり、部屋に柔らかな時間が流れた。


***


 その夜、瑛士は病室を出る直前、ドアの前で立ち止まった。

 「莉緒」

 「なに?」

 「明日、夕方また来る。……夕焼け、君と見たい」

 莉緒は微笑みながら頷いた。

 「うん。みんなで見ようね」

 お腹に手を添え、そっと囁く。

 「パパ、また来るって」


 五つの小さな鼓動が、まるで返事をするようにぽこぽこと動いた。

 莉緒はその動きに笑みを浮かべながら、胸の奥で呟いた。

 ――この音を、ずっと守りたい。

 瑛士と一緒に。


 窓の外では、秋の風が優しく木の葉を揺らしていた。

 五つの小さな命の鼓動が、静かな病室の中に、確かに生きて響いていた。



【次回第10話】

季節は秋。病室の窓の外を見た莉緒が「もう秋なんだね」とつぶやく。 胎動が活発になり、五人の命を感じる。

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