六つの玉の空を翔ける 街角のスズメ1

街角のスズメ

第1章 屋根の上の観察者

アルノ川――フィレンツェを貫くその流れは、夜になると羽の重さを失う。

流れは鏡のように静まり、街の光を揺らめく絵具に変える。

風が川面をなでるたびに、金とパンの匂いが混ざり合って、

わたし――ピッコロ――の胸の奥に小さな羽音を残す。


ポンテ・ヴェッキオの欄干の上。

鉄のように冷えた石の感触を爪で確かめながら、

わたしは街を見下ろす。

夜のフィレンツェは、宝石箱ではない。

もっと、息づく生きものだ。

金細工師の窓ひとつひとつが脈を打ち、

火の赤が呼吸し、煤が語る。


人間は「金は匂わない」と言うけれど、それは嘘だ。

金には、火の汗の匂いがある。

灰と鉄と、少しの祈りの匂い。

それを、わたしは“あたたかい石”と呼んでいる。


下の工房(ボッテガ)からは、

ルーペ越しの青い光が漏れていた。

無口な男が、火を眠らせながらひとつの玉を磨いている。

青――水よりも冷たく、夜よりも深い色。

それが火の中で息づく瞬間、

時間が一瞬だけ、逆さに流れる。


「マエストロ、本当に“palle”のひとつを青くするんですか?」


弟子の声。まだ若く、言葉の端に粉砂糖のような訛りが混ざっている。

わたしは屋根の影に身を寄せ、耳羽を澄ませる。


“palle”――メディチ家の紋章、六つの玉。

人々はそれを誇りの印として掲げる。

だが、わたしたちスズメには食べられない実にしか見えない。

硬く、冷たく、甘くない実。

ただ時々、人が祭りで砂糖細工にする時だけ、

ほんの少しだけ舌に触れさせてもらえる。


「注文どおりだ。」

金細工師の声は、眠る炉の中の灰のように低く。

青い玉が石皿の上で転がり、

周囲の五つの赤とぶつかりながら、わずかな音を立てた。

カラン――

その響きが、わたしの心臓の奥を震わせる。

違いは、いつも音から始まる。


「でも紋章は、赤が六つでしょう?」

弟子の声がためらいを含む。

「青は……何を意味するんです?」


「うるさい。」

短く切り捨てる声。

「客の望みだ。“色は借りものだ”と、そう言っていた。」


――色は借りもの?


その言葉に、羽がひとつ逆立つ。

わたしたちは色を“まとう”けれど、“借りる”ことはない。

それは人間だけが使う、少し哀しい魔法の言葉。

借りるものは、いずれ返さなければならない。

たとえそれが“光”でも。


ジョットの鐘楼から、鐘がひとつ鳴った。

見えない糸のような音が、街の屋根を縫っていく。

その糸に心をひっかけた瞬間、

わたしの視界が一瞬、別の時代の色に滲んだ。


――旗。

――行列。

――赤、赤、赤、赤、赤、そして青。


金色の紙吹雪が風に散り、

ルネサンスの陽が街を満たしていた。

群衆の中で、たったひとつの青が燃えるように光っていた。


そして、現(うつつ)へ。

火の匂いが戻り、影がすべり込む。


扉が軋み、

夜の中から“匂いのない影”が現れた。

香水でも汗でもない、

まるで風にすら触れない影。

匂いのないものは、風を持たない。

だから追えない。


「できたか。」

影が低く言う。

金細工師は青い玉をつまみ、

五つの赤の中に静かに戻した。

六つの玉――光のように整列する運命の数。


「支払いは?」

弟子の声が震える。

影は革袋を置き、じゃり、と音を立てる。

金の音は鈴のように軽いが、重みだけは消えない。


そのとき、袋口の端から青い糸がひとすじ、風に揺れた。

わたしは息を止め、その色を覚えた。

月明かりの下で光るその糸は、海の底のように冷たかった。


「約束は済んだ。」

影が言う。

「色は借りものだ。いずれ、返す。」


「どこへ返す?」

金細工師の問いに、影は肩をわずかに上げた。

それだけで、言葉がいらない沈黙の答えがあった。


影はメダイヨンを懐にしまい、

音もなく去る。

扉が閉まると、夜の空気がふっと変わった。

橋の下を渡る風が、月の破片を一枚、川へ流していく。

頼りない月ほど、真実に近い。

わたしはそう思う。



夜明け。

工房の火が消え、

金細工師は椅子にもたれ、弟子は机に突っ伏して眠っている。

眠りとは、守りの証。

守られない眠りは、人にも鳥にも似合わない。


その静寂を裂くように、扉がまた軋む。

今度の影は、紙の匂いをまとっていた。

古い書物と柑橘の皮の香り。

鍵を使わず、指先だけで扉を押し開ける。

蝶番が小さく鳴く。

その音を、わたしは覚えた。

音は、未来の道しるべになる。


影は布をめくり、机の上を探る。

六つの玉は、もうない。

短い息。

天窓を見上げた影の瞳に、

わたしの姿が映る。

その視線の奥に、薄く白む朝が滲んでいた。


影は指で机の角をなぞり、

金粉を集めて呟く。

「借りた色……返す色……青は、どこへ?」


わたしは小さく鳴いた。

“南、南”――

だが人間の耳は、鳥の言葉を聞き取らない。


影は何も盗らず、

紙の匂いだけを残して去った。

扉が再び小さく鳴き、

その音が次の夜の始まりを告げた。



朝。

アルノは灰から金に変わり、街にパンの匂いが満ちる。

わたしはジョットの鐘楼の縁まで飛ぶ。

風が新しい日を運んでくる。

靴音、秤の音、笑い声、噂、祈り。

「買ったか」「売ったか」「隠したか」「借りたか」「返したか」――

そのどれもが、街という生きものの呼吸だった。


鐘が二度、鳴る。

その瞬間、

過去の匂いがふっとよみがえる。

革と鉄、旗と炎――そして、“六つの玉”。


その青は、空の破片のように光っていた。


「ねえ、ピッコロ。」


下から声。

テラスに立つのは修復士のキアーラ。

風に押されない立ち方をする人。

石の目地に足を合わせるように立つ人。

だから、好きだ。


「昨夜、修復室で変なものを見たの。

 六つの玉の並びが、少しだけ違ってたの。」


わたしは首を傾げ、

彼女の髪に落ちたパンくずをついばむ。

礼儀のしるし。

キアーラは微笑む。


「ねえ、六つのうち、一つだけ青ってありえる?」

彼女は指で空に六つの点を描く。

点は、言葉。

並べば、地図になる。


わたしは短く鳴いた。

“ある”。

彼女の耳は、鳥の短い言葉を掴む。

「……だよね。わたしもそう思った。」


ポケットから紙を取り出す。

六つの丸が描かれ、ひとつだけ青く塗られている。

まるで、誰かと交わした“約束”のように。


「今夜、もう一度確かめるわ。

 それと、キアンティの畑で拾った圧搾印。

 葡萄の列が六つの点の形なの。偶然じゃない気がする。」


風が葡萄の酸い香りを運んできた。

わたしは彼女の肩に止まり、

“行こう、夜に”と鳴く。


キアーラは頷いた。

その瞳の奥で、何かが静かに目を覚ました。


――色が呼んでいる。

青が、まだこの街のどこかに潜んでいる。


そして、わたしの小さな胸の鼓動も、

それに呼応していた。

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