其の十三 境界の終わり

 大学の講義室は、空調の微かな唸りと数百人の学生が発する体温、そして講義内容を記録する無機質な打鍵音に満ちていた。


 ここには、あの古い家に漂っていたような湿った気配など、微塵も存在しないはずだった。


 けれど、私は知っている。

 一番後ろの席に座り、ラップトップの画面に目を落としているとき。視界の端、誰もいないはずの通路側に、空気の密度の違いが生む「澱み」が寄り添っていることを。


 それは実体を持たず、姿も見せない。そして、確信していることが一つある。それは決して、大叔父ではない「何か」だ。


 ふと集中を切らした瞬間に、そっと肩のすぐ後ろに現れる。


 振り返れば消えるだろう。鏡を見れば何も映っていないだろう。あの通夜の日、晩秋の凪いだ空気の中で感じた得体の知れない「何か」が、私の影に縫い付けられたまま、この街までついてきているのだ。


 左手首の大叔父の時計は、変わらずカチ、カチと時を刻んでいる。


 その規則正しい振動が、私の動悸を一定に保ってくれていた。もしこの音がなければ、私は背後の気配に呑み込まれ、マンションに引きこもったまま、虚空を睨みつけるだけの廃人になっていたかもしれない。


 リュックの中、重い教科書やラップトップに挟まれるようにして、ケースに収められた懐剣が眠っている。 刃を潰してあるとはいえ、大学生活という日常に刀を持ち込む背徳感と恐怖。けれど、それ以上に「これを持っていなければ、背後の何かが一線を越えてくる」という確信が、私に携行を強いていた。


「……いるんだろ」


 夜、独り暮らしの部屋で、テレビもつけずに呟いてみる。返事はない。ただ、カーテンが揺れてもいないのに、窓際の空気がわずかに震えた気がした。


 食事をしているとき、風呂に入っているとき、眠りに落ちる瞬間。 常に誰かに「見守られている」のではなく、「観察されている」感覚。


 それは大叔父のような慈しみとは程遠い、もっと原初的な、獲物を品定めするような静かな好奇心に近かった。


 祖母の「振り返らんこと」という言葉を、私は呪文のように守り続けた。

 振り返って、もしそこに「何もない」ことを確認してしまったら、私は自分の正気を疑わなければならない。逆に、もし「何か」がそこにいたなら、私は二度とこちらの世界には戻れない――そんな予感があった。


 見ない。認めない。ただ、刀という「防ぐための道具」を傍らに置く。 それが、私に課せられた、目に見えない修行のようだった。


 季節が少しだけ進み、四十九日法要の日がやってきた。


 再び訪れた故郷は、通夜の日よりもさらに冷え込んでいた。 山々は冬の眠りを深め、空は抜けるように高い。

 実家の門をくぐった瞬間、背後に張り付いていた「澱み」が、ふっと軽くなったような錯覚を覚えた。帰るべき場所に、その何かもまた帰ってきたのだろうか。


 法要は、淡々と進んだ。

 読経の響きが、屋敷の古びた木材に染み込んでいく。  私は遺影の中の大叔父を見つめた。写真の中で笑う大叔父は、私が進学で街を出る日に「戻ろうとしなくていい」と言ってくれたあの時とは、どこか別の存在のように見えた。


 葬儀が終われば、あちら側。

 今日、この法要が終われば、大叔父の魂は完全にこの土地の、あるいはもっと遠い世界へと還っていく。

 それは同時に、私に付きまとっていた「何か」も、その役目を終えるということを意味していた。


 法要後の会食が終わり、親族が片付けを始めた頃、祖母が私を呼び寄せた。


「あんた。ずっと持っとったか?」

 

「……うん。ずっと持ってたよ」


 私はリュックから、布に包まれた懐剣を取り出した。  祖母はそれを恭しく受け取ると、中身を確かめてから、仏壇の脇にある古い桐箱の上に乗せた。


「ご苦労さん。怖かったろう。懐剣役には、毎回ついて回りよる。私がお役目した時もそうだったわ」


 あれは何だと思うか、と私は祖母に尋ねてみた。


「生きた人間が、死んだ人間に引っ張られんように。あるいは、死んだ人間が寂しくて、生きた人間を連れていかんように『名前を呼ばない』よう見張っとる、名倉の神さんの眷属ちゃうかな。懐剣役は生者と死者の境界に立つさかい。……まあ、眷属にしてはジメジメしとるがな」


 祖母は、しわがれた手で私の頭を一度だけ撫でた。  その手の温かさは、間違いなく生きている人間のものだった。


「もうええよ。もう、振り返っても大丈夫や」


 その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けた。

 肩にずっと乗っていた重石が、雪解けのように消えていく。 私は、何週間もの間、頑なに拒み続けてきた動作――「背後を振り返る」という行為を、意識的に、ゆっくりと行った。


 そこには、磨き上げられた廊下と、西日に照らされた障子があるだけだった。

 空気の澱みも、視線も、不気味な気配もない。


 ただ、静かな古い家があるだけだった。


 あれほど鮮明だった「何か」は、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去っていた。


 帰りの電車の中で、私は左手首の時計に目をやった。  秒針は変わらず、正確なリズムを刻んでいる。 けれど、もうそこに大叔父の体温の記憶を必死に探す必要はなかった。


 時計はただの時計に戻り、懐剣はただの美術品、あるいは寺の宝物に戻った。 そして私は、ただの大学生に戻るのだ。


 窓の外、遠ざかっていく故郷の山々を見つめながら、私は一度だけ深く息を吐いた。 肺の奥まで、新鮮な空気が満ちていく。


 もう、背後を気にする必要はない。

 私は前を向き、都会の喧騒へと戻っていく。

 けれど、ときどき、静かな夜に時計の音を聞いていると、ふと思うことがある。 あの四十九日間、私のすぐ後ろにいた「何か」は、本当にただ見張っていただけなのだろうか。


 護衛にしては、あまりに不快な気配だったからだ。  


 真相は、もうわからない。

 ただ一つ確かなのは、今の私にはもうあの気配はないということ。


 私は静かに目を閉じ、電車の揺れに身を任せた。  まどろみの中で、あの静かな朝の、冷たく澄んだ空気の匂いがした気がした。

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