第32話 『終わり (1) 』

気がつくまでに、しばらく時間がかかった。頭の片側がずきずき痛み、片耳はまだよく聞こえなかった。耳鳴りのようなノイズと長く伸びる高い音がずっとつきまとい、それを振り払おうと、悪い方の耳を軽く叩いた。


「父さん」


かすれた声とともに顔を上げる。父が、まっすぐ目の前に立っていた。片手には棒のようなものを握っている。いや……棒というより、先端に金属のついた杖だった。父がそんなものを必要とするはずがない。違和感が胸をよぎった。


「おまえ」


父の目は血走っており、その表情には優しさの欠片もなかった。恐ろしいほどだった。そして、もう一つの事実を思い出させた――他人の顔をまっすぐ見るのは、いつだって怖い。


「な……なんだ? 何があったんだ?」


立ち上がろうとした瞬間、父が一歩踏み出す。杖を握る手に力がこもり、白くなるほど強く握りしめていた。


「おまえは……」声が震える。「おまえは……いったい誰のつもりでそんな口をきくんだ!」


「待ってくれ、父さん、頼むから」


「待てだと?!」父は吐き捨てる。「今さら、私に待てと?!」


振り上げられた杖。両手が震えている。


「だ……だめだ、やめ――!」


次の瞬間、腕の力すべてを込めたような勢いで、その杖が振り下ろされた。反射的に前腕で頭をかばった。打撃は容赦なく腕に直撃し、肉が潰れる音がした気がした。


叫んだ。


「痛いっ!」


床を這って後ろへ逃れようとする。だが父はすぐに二発目を振り上げていた。


「誰がおまえに、そんな口をきく許可を与えた!」


だが後ろには校長の机があり、退路はそこで途切れた。二発目は肩に落ち、肩が押し潰されるような痛みが襲う。


「っ……ああ!」


「家を出て行こうとしているくせに……!」声が一瞬震え、すぐに怒りが燃え上がる。「そのうえ父親に言い返す権利があるとでも思っているのか! そういうつもりか!」


返事を待つつもりは父にはなかった。


三発目は、痛む肩をかばおうと手を当てていたせいで、まったく防御できなかった。咄嗟に片手を上げたが、杖はその指二本を正確に打ち抜いた。


「っあ! な、なんだよ……っ!」


その痛みは先の二撃とは比べ物にならなかった。骨が砕けたのではないかと思うほどだった。よろよろと立ち上がり、ふらつく足でドアへ向かって走る。


「待てと言っているだろう!」


父の声は裂けるようだったが、もはや耳には届かなかった。本能だけが体を動かしていた。ドアを押したが、びくともしない。


「海斗、出ていくことは許さん!」


行かなくてはならない。そう思った。だから、ドアの向こうにいると信じている兄の名前を呼んだ。


「優一、優一! 開けてくれ! 優一!」


必死に押しても動かない。力が足りないのか――それとも、殴られすぎてまともに力が入らないのか。


「優一! 優一! 頼む!」


ドアを叩く。大きな音を立てれば、誰か――先生でも、生徒でも――気づいてくれるかもしれないと、そんな一縷の望みが浮かんだ。


「押さえろ!」


父の声。そして次の瞬間、誰かが後ろから制服の襟を掴み上げた。


「ま、待って!」


力が強い。床から体が持ち上がった。父ではない。もう一人の男だ。大きな手が僕の頭を覆い、頭蓋を押しつぶすように力がかけられる。


痛い。


「離せっ!」足をばたつかせる。「離せ! ふざけんな! 優一! 優一、開けてくれ!」


踵で蹴り返そうとしたが、男はあまりに背が高く、足は虚しく空を切るばかりだった。手を振りほどこうとしても、指をこじ開けようとしても、爪で引っ掻いても無駄だった。


「優一!」


ドアに向かって足を伸ばした瞬間、それが男の逆鱗に触れた。


「黙らせろ!」


父の声が聞こえた直後――


男の怪力で、僕の顔がドアに叩きつけられた。凄まじい音が部屋に響く。


世界が赤に染まった。数秒、意識が途切れた。


腕がだらりと落ちる。意識が戻ると、鼻が折れたことが分かった。鼻腔を血が満たし、呼吸ができない。喉に血が流れ込み、むせた。吐き気が込み上げる。泣きたかった。


痛い。痛い。痛い。痛みしかなかった。


「父さん……」かすれた声で頼むように呼ぶ。


震える手は、意志だけで再び男の手を振りほどこうと頭の後ろに伸ばした。


「確実にやれ」


再び、顔がドアに叩きつけられた。世界が遠のく。音も痛みも消え、ただ痺れだけが残った。頬を伝うぬるい液体の感触だけが現実だった。


血が喉に落ち、むせ返る。鉄の味が広がる。


もう手を動かすこともできなかった。熱いものが片目からこぼれ落ちる。


「は、は……っ」


呼吸が不規則になる。しゃくり上げるような、溺れているような呼吸。


そして最後の一撃が、顔を正面から打ち据えた。


世界が色を失った。音も、匂いも、味もなかった。痛みもなかった。


奇妙だった。


まるで自分という存在が薄れていくような――ふわりと体が浮くような感覚に包まれた。それが、不思議と心地よかった。


そう、奇妙だったのは。


そこに、麗華がいたからだ。


_____________________


優一の視点


部屋の中で海斗が殴られている。


分かっていた。ドアが開かないように体重をかけて押さえながら、兄の叫び声をはっきり聞いていたから。だが、耳をふさぐようにイヤホンをつけ、音楽の音量を上げた。


ドアが蹴られても、俺は動かなかった。強い衝撃で体が何度も前に押し出されても、ただただ音量を上げ続けた。


「さて、今回はどこまで行くのかな」


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