第3話 空気の粒が光る朝

足もとを包む風が、少し冷たくなった。

季節が変わる予感というより、

何かが“始まる前”の空気に似ている。


俺は相変わらずパンをくわえたまま、

頭の中では遅刻の言い訳を3つ並べていた。

「電車が遅れてた」「靴が壊れた」「犬が飛び出してきた」——

けど本当は、そんなことどうでもよかった。


誰も気づかない朝の中で、

ただ自分がどこに向かってるのかを確かめたかった。

そんな日もある。


前の交差点が見えてくる。

横断歩道の白が、朝日に照らされて少し眩しい。


すれ違う人たちの香水の匂い、

車の排気、パン屋の焼きたての甘い香り。

そのどれでもない、

“知らない匂い”が、ふっと混ざった。




同じ頃、反対側の歩道。


彼女は紙カップを片手に、もう片方でスマートフォンを操作していた。

画面の隅に映る自分の顔が、

完璧なピクセルで少し疲れて見える。


「寝不足、か……」

つぶやいた声が、カップのふちに吸い込まれる。


それでも足は止まらない。

イヤホンから流れた音が、いつもより少し速かった。

プレイリストの順番がずれたのか、Lo-fiではなく

リズムが強めの曲が流れている。


「……あれ?」

親指でスキップしようとしたけど、

指が止まった。

なんか、今日はこのままでいい気がした。


朝の街のテンポと、

自分の心拍がゆっくりと重なっていく。


Apple Watchを見下ろす。

表示が一瞬、止まったように感じた。

画面をタップしても、ちゃんと動いている。

なのに、時間の流れがほんの少し遅い。


ふと、風が頬をかすめた。

知らない香りが、鼻先をすり抜けていく。

視線を上げる。


 ——ほんの少しだけ、空気の粒が光ったように感じた。



人の流れが交わる交差点まで、あと30メートル。


2人の足音は、

ほぼ、同じリズムで街を刻んでいた。

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