第十七章:仕組まれた『社交場(サロン)』
(寛永二年・江戸城 西ノ丸)
忠長の幽閉と、酒井忠世の「寝返り」が完了し、江戸城から「忠長派」の空気は完全に一掃された。 家光は、自らの「システム」の、次なる段階に着手するため、西ノ丸の書院に、あの女を召し出した。 大奥の絶対君主、春日局である。
「……局。先日の大奥の『掃除』、見事であった」 家光は、積み上げられた大奥の決裁書類に目を通しながら、静かに言った。
「もったいなきお言葉。……すべては、上様が、あらかじめ『露』を払ってくれたおかげにございます」 春日局は、冷静に事実を述べた。彼女は、家光が『霞』や『杭』といった「影」を使い、自分(春日局)の「掃除」を裏から支援していたことに、気づいていた。
「して」と家光は顔を上げた。 「お前に預けた『素材』……『お絹』といったか。……あの『道具』は、どうだ」
春日局の口元が、わずかに緩んだ。 「……恐るべき『道具』にございます。あの子は、わたくしが『光』の当て方(教育)を誤れば、わたくし自身をも喰らいかねませぬ」 「上様の見立て通り、『粛清』を目の当たりにしても、ただ『道具に心はございませぬ』と。……あの子の『忠誠』は、もはや『狂信』にございます」
「それでよい」 家光は、満足げに頷いた。 「では、その『道具』を使う、真の『舞台』の話をしよう」
「……と、申されますと?」 春日局は、顔を上げた。
「余は、お前に『別の大奥』を作れと命じた。 諸大名に『徳川の息のかかった女』を送り込み、『血』で縛るためだ、と」
「はっ。……ですが、その折、わたくしは『諸大名の反発が大きすぎる』と愚かにも申し上げました」
「その通りだ」 家光は、冷ややかに言った。 「お前の危惧は、正しかった。 ……だから、わたくしは、お前の『正論』を逆手に取る」
「……逆手に、でございますか?」 家光は、春日局の目の前に、一枚の「設計図」――いや、「システム構築案」とでも言うべき書付を置いた。 それは、転生者である家光が、この数年、ずっと構想してきた計画の全貌だった。
「大名は、『押し付けられる』から反発するのだ」 「『強制』されれば、それは『屈辱』となる。 ならば、『強制』を『名誉』に、『屈辱』を『競争』に、すり替えればよい」
春日局は、その書付に記された、信じがたい構想に目を走らせ、息を呑んだ。 「……『御用庭園』……? 『文化御殿』……?」
「そうだ」 家光は、冷徹にその「システム」を解説し始めた。 「まず、公儀が認めた、最高格式の『社交場(サロン)』を、江戸に作る。 表向きは『諸大名の文化交流の場』『和歌や茶会を催す御殿』だ」 「……そこに、『お絹』のような娘たちを置く。 彼女たちの建前は、『将軍家が厳選した、高い教養と礼儀作法を身につけた御世話役』あるいは『旗本の娘たちの、最高峰の花嫁修行の場』だ」
春日局は、その構想の恐ろしさに、気づき始めた。 「大名たちは、その『社交場』で、彼女たちに『出会う』。 そして、『自らの意思で』彼女たちを見初め、側室に迎えたいと『懇願』してくる」
「……!」 「我ら(徳川)は、何も強制しない。 我らは、ただ、『教養ある娘』を差し出すだけだ。 それを『獲得』できた大名は、己の『名誉』と誇るだろう。 『獲得』できなかった大名は、己の『不徳』を恥じ、次こそはと、幕府への『忠誠』を競うだろう」
家光は、立ち上がった。 「『幕府に女を押し付けられた』という反発は、これで消滅する。 残るのは、『自ら選んだ高貴な女(=影)』を獲得できたという『自尊心』と、『幕府への競争的な忠誠心』だけだ」 「そして、その『影』が産んだ子が、次の藩主となる」
春日局は、わなわなと震えていた。 それは、怒りでも恐怖でもない。 人間の自尊心、嫉妬、名誉欲、そのすべてを「システム」として利用し、大名を内側から完璧に支配するという、目の前の主君の「神」のごとき深謀遠慮に対する、戦慄だった。
(……この御方は……『政(まつりごと)』をしておられるのではない) (……『天下』という盤面で、大名の『心』そのものを、駒として動かしておられる……!)
家光は、春日局に、最後の「毒」を流し込んだ。 「この『社交場(サロン)』を、『光(おもて)』の舞台として、完璧に仕切れる『道具』は、この世に、お前しかおらぬ」
春日局は、もはや何の疑いもなかった。 「天下の乳母となれ」と言われた言葉の意味が、今、完璧に理解できた。
「……御意」 春日局は、畳に額がつくほど、深く、深く、平伏した。 「この春日局。……上様の『天下』という名の『社交場(サロン)』。 ……その『女主人(あるじ)』として、諸大名を、骨の髄まで『懐柔』し、支配してごらんにいれまする」
「うむ。だが、焦るな」 家光は、初めてそこで釘を刺した。 「この『花の御殿』の普請、そして『お絹』たち『道具』の教育。 ……どれも、最低一年はかかる大事業だ。 中途半端な『道具』と『舞台』では、古狸ども(=大名)の目は誤魔化せん」
「はっ。……必ずや、完璧な『道具』と『舞台』を」 「お前に、『光』の準備は一切を任せる」 家光は、冷ややかに言った。 「……その間、わたくしは、もう一つの『準備』をせねばならぬ」
(同日・夜。影のアジト)
「『影』の増強だ」 家光は、アジトの本堂で、蔵人と薄雲に告げていた。 春日局に命じた「光」の準備と、同時並行で進める、もう一つの「準備」。
「蔵人。お前の『刃』は、優秀だ。『牙』『霞』『杭』の三人は、わたくしの手足だ」 「だが」と家光は、冷徹に「システム」の脆弱性を指摘する。 「たった、三人だ」
蔵人は、沈黙でそれに応えた。
「忠長の『処分』には間に合った。 だが、これから始まるのは、薩摩、長州、伊達……日本全土の『外様』という名のバグとの戦いだ。 ……これでは、数が、絶対的に足りぬ」
「……御意」
「春日局が『光』の舞台を整える、この一年。 ……わたくしたちは、『影』の戦力を、今の十倍に増強する」
家光は、蔵人に命じた。 「第一に、『素材』の調達だ。岡部(あの共犯者)を使い、非人を集めろ。 第二に、『教育』だ。薄雲、『尼寺』から集めた『朝霧』たちを、最強の『女忍者(くノ一)(懐柔タイプ)』に仕上げろ」
そして、家光は、蔵人の心の奥底に眠る「過去」に、手を伸ばした。 「蔵人。そして、第三だ」 「お前の『過去』を、狩れ」
「……!」
「お前が仕えていた、伊賀の者たち。 お前ほどの『刃』が、お前一人で終わりとは、わたくしは思わぬ。 ……『処分』を免れ、太平の世に牙を隠し、『骸(むくろ)』として生きている者たちが、まだおるはずだ」
「……」
「即戦力が要る。 ……蔵人。この一年の間に、お前の『古き仲間』を、わたくしの『新たな道具』として、このアジトへ連れてこい」
家光の冷徹な命令が、闇に響いた。 それは、家光の「システム」が、次なる段階――「影の軍団」そのものの、本格的な「組織化」へ と移行する、号砲であった。
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