第九章:生還と、次なる「毒」

(寛永二年・江戸城 西ノ丸・深夜)


家光は、書院で目を閉じていた。 夜が最も濃くなる刻限。酒井屋敷に放った「影」が、結果を持ち帰る時だ。


室内の蝋燭(ろうそく)の炎が、まるで風も無いのに、ふっと揺らぎ、室内の「影」が、一か所に集まった。


「……御前に」


闇から滲み出たのは『霞』だった。 黒装束は血糊で汚れ、息は激しく乱れている。だが、その目は、任務を遂行した者の、異常なほどの冷静さを保っていた。


『霞』は、家光の御前に片膝をつくと、懐から、血で湿(しめ)りかけた一通の書状を、恭(うやうや)しく捧げ持った。


「主君の命じられた『餌』にございます」


家光は、ゆっくりと目を開けた。 彼は、すぐには書状を受け取らない。まず、その冷徹な視線で、『霞』の全身を検分した。


「……お前の血か」


「……『牙』の返り血と、屋敷の者の血にございます。わたくしは、無傷」


「そうか」 家光は、それだけ言うと、初めて書状に手を伸ばした。 忠長が酒井忠世に宛てた、あの「密約」の書状。


月明かりに、忠長の優雅な筆跡が浮かび上がる。 『天下の政、兄に替わり、卿と議らん』


家光の口元が、わずかに吊り上がった。


「……愚かな弟だ。虎の威を借りるどころか、狸の威を借りて、虎を狩ろうとは」 「……して、『牙』は?」


家光の問いに、『霞』の肩が、初めてわずかに震えた。 「……『牙』は、屋敷の侍、十数名を道連れに……。私が塀を越えるまで、追っ手を食い止めました。ですが、槍三本、矢五本を受け……」


『霞』が、「絶望」という名の報告を口にしようとした、その時。


家光は、その報告を遮るように、静かに書院の天井を見上げた。


「……蔵人」


家光の呼びかけに応じ、音もなく、書院の天井裏から一人の男が降り立った。 「刃」の師、蔵人。 その背には、血まみれで意識のない巨漢――『牙』が、まるで米俵のように担がれていた。


「牙……!」 『霞』は、その姿を認め、驚愕に目を見開いた。


蔵人は、家光の前に『牙』の巨体をそっと横たえると、乾いた声で淡々と報告した。


「『霞』の離脱後、屋敷の別棟に火を放ち、混乱に乗じて『牙』を回収。左足は、当分使えませぬが、命に別状はございません」


家光は、立ち上がった。 彼は、玉座からではなく、床に横たわる「道具(=牙)」の前に、自ら膝を折った。


その所作に、『霞』は息を呑んだ。 (……あの日、我ら非人を救われた時と、同じ所作……!)


家光は、意識のない『牙』の、血に濡れた傷口に、そっと掌をかざした。 (……槍による貫通創、動脈損傷、失血によるショック。矢の鏃(やじり)からの破傷風のリスク……)


転生者としての「知識」が、瞬時に治療法を弾き出す。 (……危険なのは失血性ショックと感染症。止血と抗生物質が最優先だ)


そして、「ギフト」が、それに呼応した。


家光は、何もない空間に、ゆっくりと手を差し入れた。 彼が手を引き抜いた時、その掌には、この時代に存在するはずのない、いくつかの「医療器具」と「薬剤」が握られていた。


薬剤が充填された、数本の「注射器」。


外科処置用の「消毒薬」の瓶。


銀色の台紙に密封された「縫合針・糸」。


『霞』は、主君が「無」から薬を生み出す、その神のごとき奇跡を、あらためて目の当たりにし、息を止めた。


「アジトへ持ち帰れ」 家光は、冷徹に命じた。


「蔵人。お前の『忍び』の医術で、鏃を抜き、この『消毒薬』で傷を洗い、傷口を『糸』で縫え。最優先で止血しろ」


「はっ!」 蔵人は、主君から渡された「命」を震える手で受け取った。


「止血が完了次第、この『注射器』を使え」 家光は、充填された注射器を指し示した。


「青い液は『抗生剤』と言う。腐敗を止める。 赤い液は『造血ホルモン』と言う。何倍もの速度で血を作らせる。 ……薄雲には、お前が処置した後の『看護』と、これらの『注射』の管理を徹底させろ」


『牙』の荒い呼吸が、かすかに、しかし苦しげに続いている。


家光は、『霞』に冷たい声で言い放った。

「……お前達は、俺の大切な『道具』だ。……この『牙』を、以前より鋭く、完璧に『修理』しろ。下がって『牙』の側にいろ。……お前も、『修理』が必要だ」


『霞』は、あふれ出そうになる「狂信的な歓喜」を、奥歯で噛み殺し、畳に額がめり込むほど、深く頭を垂れた。


「は……! 御意!」 『霞』は、蔵人と共に、闇へと消えていった。


(書院・家光と蔵人)


数瞬後。 蔵人は、まるで分身したかのように、再び家光の御前に戻っていた。


家光は、二人きりになると、手にした忠長の「密書」を眺めた。


「この『餌』は、まだかぬ」


「……と、仰せられますと?」


「酒井は、今夜、『影』に蔵を破られ、最大の『弱み』を盗まれた。あの古狸は今、恐怖で眠れぬ夜を過ごしている」


「……泳がせる、のでございますね」


「ああ」 家光は、冷ややかに笑った。 「恐怖に駆られた狸は、必ず『主(』(=忠長)に泣きつくか、あるいは、盗まれた『証拠』を揉み消すために『新たな仲間』を引き入れようとする。……俺は、その『次』を釣る」


家光は、もう一方の「毒」――本丸に仕掛けた『蜜』と『蝉』に、思いを馳せた。


「……『蝉』に伝えよ。父上(=秀忠)は、今夜の酒井屋敷の『騒動(=火事と侵入者)』を、どう聞いているか。 父上の『酒井への信頼』に、どう『ヒビ』を入れるか……。 『蜜』の『毒』の使い所を、誤るな、と」


「御意」


家光は、手にした忠長の密書を、燭台の火にかざした。


「蔵人。この書状は、今から『偽物』だ」


「……!」


「今、お前の手で、これと寸分違わぬ『写し』を作れ。 原本(=本物)は、俺が預かる」


家光は、掴んだ「餌」を、万が一の時に備え、さらに強力な「罠」へと作り替える。


「……『本物』を公にするのは、あの古狸が、弟の『首』を、俺の足元へ自ら捧げに来た時だ」


冷徹な主君の言葉に、蔵人は、音もなく深々と頭を垂れた。

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