『転生家光と「影」の創世記 〜虐げられた非人・遊女を最強の暗殺集団に育て、春日局(ひかり)の裏で江戸の闇(あく)を葬る〜』
@melon99
序章:影の目覚め
(慶長十八年・江戸城西ノ丸)
蝉の声が、まるで城の石垣を溶かすかのように降り注いでいた。 御年七歳、徳川竹千代(のちの家光)は、その日も「虫取り」という大義名分のもと、乳母である春日局(おふく)の監視網から逃れる算段をしていた。
「若君、あまり奥へは……」 「若君、お足元が……」
大奥の奥女中たちの声は、粘りつく蜜のようだ。 愛情ではなく、完璧な「管理」の音。 竹千代がこの世界に「徳川家光」として転生して以来、彼はずっとこの「管理」の中で生きてきた。 父母(秀忠と江)のあからさまな弟・忠長への寵愛。 病弱と噂され、吃音(きつおん)と嘲られる、世継ぎの座からいつ滑り落ちてもおかしくない「か弱い若君」。
(……すべてが、俺の鎧だ)
現代日本の記憶を持つ彼にとって、この息苦しい封建社会は、そして春日局という怪物が支配する江戸城は、あまりに不自由な牢獄だった。 だが、牢獄であると同時に、転生者としての知識と、この「無能な子供」という最高のカモフラージュは、彼に常人では持ち得ない「観察」の時間を与えた。
「……あ! ちょうちょ!」
竹千代は、わざと舌足らずな声を上げ、草むらに駆け込んだ。奥女中たちの「若君!」という焦った声が背後で遠のく。 計算通り。 この先の、西ノ丸の隅にある打ち捨てられた庭園へは、彼女たちもすぐには追いつけない。
(……春日局は、万能ではない)
彼は息を弾ませながら、冷徹に分析する。 彼女の支配は、あまりに「公」に偏りすぎている。幕府の権力、大奥の秩序、その「表」の掌握にこそ彼女の強みはある。
(だから、俺は『裏』を掴む)
彼女の知らない「力」を、彼女の監視の外で手に入れる。
(元服まで、あと数年。時間がない)
茂みを抜けた先、そこは城内で最も日の当たらぬ場所だった。 半ば朽ちかけた東屋と、伸び放題の雑草に混じって、忘れられたように一本の巨大な松がそびえている。
その松に、一人の男がいた。 年の頃は三十代半ば。城の庭師の装束である「松葉色」の地味な小袖を纏い、黙々と松の剪定(せんてい)をしている。 男は竹千代が息を切らせて現れても、一瞥(いちべつ)もくれなかった。 ただ、シャキン、シャキン、と、恐ろしく規則的なリズムで剪定鋏(せんていばさみ)の音だけが響く。
その所作には、一切の無駄がなかった。 庭師のそれではない。何か、別の目的のために研ぎ澄まされた、機械的なまでの効率。
竹千代は、この男を「蔵人(くろうど)」と特定するまでに、三ヶ月を要した。 かつて伊賀に属し、徳川家康に仕えた「草(くさ)」(忍び)の一族。 太平の世の訪れと共にその牙を恐れられ、一族は解体。 生き残りは、その技を二度と使わぬことを誓わされ、柳生や春日局の監視のもと、城内の雑用係として「飼い殺し」にされている。 蔵人は、その最後の生き残りだった。
竹千代は、額の汗を拭うふりをしながら、子供の無邪気な声で、背中に向かって話しかけた。
「お前、蔵人だな」
シャキン。 鋏の音は止まらない。 蔵人は、若君の声など耳に入らぬかのように、作業を続ける。この城では、彼は石ころ同然の存在だ。
「昔、すごい忍びだったんだってな」
シャキン。 音は続く。
「爺様(家康公)が言ってたぞ」
―――カツン。
音が、止まった。 剪定鋏が、枝を切り損ね、幹に当たった音だった。 数瞬の、重い沈黙。 蝉の声だけが、やけに大きく響く。
蔵人は、まるで首の骨が錆びついたかのように、ゆっくりと、ゆっくりと振り返った。 その目は、庭師のそれではなかった。 諦念(ていねん)に濁った、死んだ魚のような瞳の奥に、ほんの一瞬、獲物を見定める「獣」の光が宿った。
「……若君」 かすれた、地の底から這い出すような声だった。 「そのような戯(たわむ)れは、おやめなされ。……わたくしは、耳が遠うございます故」
「戯れじゃない」
竹千代は、その場から一歩も動かなかった。 彼は、七歳の子供がけして浮かべることのない、冷ややかな、凪(な)いだ目で蔵人を見返した。 吃音も、幼さも、そこにはなかった。
「お前は、腐っている」
蔵人の眉が、わずかにピクリと動いた。
「こんな所で、松の枝をいじって。お前のその手は、もっと血なまぐさい仕事のためにあったはずだ」
蔵人の喉が、ゴクリと鳴った。 空気が、変わった。 さっきまでの蒸し暑さが嘘のように、肌を刺すような冷たい「殺気」が、蔵人から迸る。
「……それ以上、口を開けば」 蔵人の声から、温度が消えた。 「若君とて、どうなるか、わかりませぬぞ」
それは、紛れもない「脅迫」だった。 七歳の子供であれば、泣き出して逃げ帰るか、腰を抜かすのが当然の、研ぎ澄まされた「力」の放出。 だが、竹千代は微動だにしなかった。
「なぜ怒る? 俺の言う通りだからだろ」 彼は、冷徹に事実を突きつける。 「太平の世になって、お前たち『影』は無用になった。だから、こんな場所で飼い殺されている。……生ける屍(しかばね)としてな」
「黙れ……!」
蔵人は、絶望と怒りが混じった顔で、目の前の若君を睨みつけた。 そうだ、その通りだ。 我ら一族は、徳川のために闇を駆け、泥を啜り、命を捨ててきた。 だというのに、世が治まれば「危険な牙」として疎まれ、誇りも技もすべてを奪われ、松の剪定か。 この無念と鬱屈を、父母に甘やかされたこの子供に何がわかる!
蔵人が、怒りに我を忘れ、一歩踏み出そうとした、その時。
竹千代は、蔵人の想像の遥か上を行く言葉を放った。 「勘違いするな、蔵人。俺は、お前たちが『不要になった』などとは、これっぽっちも思っていない」
「……何?」 蔵人の動きが、止まった。
竹千代は、まるでこの世の真理を語るかのように、淡々と告げた。 「戦乱の世の悪人は、わかりやすい。敵として目の前にいたからな。 だが、この太平の世こそ、真の悪人があぶり出される」
「……真の、悪人……」 蔵人は、意味を理解できず、言葉を繰り返すしかなかった。
「そうだ」 竹千代は、振り返り、そびえ立つ江戸城の本丸(=権力の中枢)を、小さな顎でくいと示した。 「法を作り、人を裁く側の人間が、私腹を肥やし、女を貪り、罪なき者を平気で踏みにじる。そういう『法で裁けぬ悪』が、これからウジのように湧いてくる。 戦の悪人より、よほどタチが悪い」
蔵人は、言葉を失っていた。 目の前の七歳の子供が語っているのは、ただの子供の空想ではなかった。 あまりに冷徹で、あまりに正確な、この国の「未来」の姿だった。
竹千代は、蔵人に向き直る。 その小さな瞳が、蔵人の魂の奥底を射抜いた。 彼は、決定的な一言を放った。
「そういう『真の悪人』を始末するのに、お前たちの『暗殺』や『破壊工作』の技術は、ますます有用なものになる。 ……違うか?」
蔵人の全身から、力が抜けた。 彼は、その場に崩れ落ちるように、膝をついた。 剪定鋏が、カラン、と音を立てて足元に落ちる。
それは「恐怖」ではなかった。 「歓喜」だった。
(この御方は……) 蔵人は、震えていた。 (……見えておられる)
自分たち一族が培ってきた闇の技術。 太平の世で「無用なもの」「忌まわしいもの」として捨てられ、自らもそう信じ込もうと心を殺してきた、その技術。 その本質的な「価値」と「新たな使い道」を、目の前の幼い主君は、完璧に理解してくれた。
法で裁けぬ悪を、裁く力。 それは、自分たちが「忍び」と呼ばれていた頃の大義名分そのものではないか。 この若君は、自分たちの「存在意義」そのものを、この絶望の底から拾い上げてくれたのだ。
蔵人は、顔を上げられなかった。 土の匂いに混じって、涙の塩辛い味が口に広がる。 何十年ぶりに、自分が「生きて」いることを実感していた。
「……若君」 蔵人は、震える声で言った。 土に額がつくほど深く頭(こうべ)を垂れる。 「その『力』……何に、お使いに……なりまするか」
竹千代は、その姿を静かに見下ろし、そして、初めて、子供らしい……いや、子供のものとは思えぬほど冷徹な笑みを浮かべた。 「決まっている。俺の『影』になれ」
蔵人は、ハッと顔を上げた。
「俺が元服し、この国を手に入れる時まで、お前は俺のために、最強の『刃』を育てる場所を作れ。 ……素材は、俺が集める」
蔵人は、もはや何の疑いもなかった。 目の前にいるのは、七歳の子供ではない。 自分が生涯をかけて仕えるべき、唯一無二の「主君」だ。
「御意」
蔵人は、再び、深く、深く、土に頭を擦り付けた。 今度は、庭の土ではなく、主君の足元の「泥」に忠誠を誓う音だった。
この瞬間、彼は春日局でも柳生でもない、竹千代(家光)ただ一人の「影」となった。 徳川三代将軍の、最も古く、最も暗い「刃」が、産声も上げずに目覚めた瞬間だった。
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