第10話 風の系譜

 ――風が、生きていた。


 それはもはや比喩ではなかった。

 観測データは、明確な意思波形を示していた。

 空層全域に広がる大気粒子が、一定の周期で情報を送受信している。

 それは言葉を持たない会話であり、

 すべての生き物の呼吸と連動していた。


 アリアは観測塔の最上階から、夜明けの空を見下ろしていた。

 かつて風を測っていたセンサーたちは、

 いまや“風に聞く”装置へと姿を変えている。

 塔の外殻には光が流れ、

 風のひとすじひとすじがまるで血管のように脈動していた。


 ――風が語っている。


 耳を澄ますと、無数の声が重なり合っていた。

 「おはよう」

 「ありがとう」

 「また、明日も」


 それらはどれも短く、淡い言葉だったが、

 確かに世界が“呼吸”していることを知らせていた。


 レイが背後から歩み寄る。

 「主任、ついに確認できました。

  風層データと人類の脳波が完全に同期しています」


 「つまり、私たちは――」


 「ええ、今や世界そのものが“語り手”です」


 アリアはそっと目を閉じた。

 胸の奥に、微かな痛みと温もりが走る。

 それは懐かしい声の記憶。

 ハルと、あの少女の笑い声が、風の中に確かにあった。


 「……これが、“転生症候群”の終着点なのね」


 レイは小さく頷いた。

 「もう、症候群とは呼べませんよ。

  風の意識、あるいは“地球語り”とでも呼ぶべきです」


 アリアはふっと微笑む。

 「呼び名なんて、もうどうでもいいわ。

  大切なのは――“繋がっている”という事実よ」


 その日、世界各地で奇妙な現象が観測された。

 砂漠では風紋が突然、古代文字のような模様を描き、

 海上では潮の流れが一瞬、巨大な螺旋を形作った。

 そして森の中では、葉が触れ合って音を奏でた。

 それはまるで、自然そのものが詩を朗読しているかのようだった。


 通信網は完全に風と融合し、

 もはや人が機器を操作する必要はなくなった。

 思考が風に乗り、風が思考を返す。

 それは新しい言語――**風語(ふうご)**の誕生だった。


 アリアはその“風語”を翻訳する装置の前に座る。

 画面に浮かんだ文字列は、もはや人の文法を持たない。

 しかしそこには確かな感情の流れがあった。


 > 『記録は風。風は記憶。

 >  あなたの語り、いま世界の息に混ざる。』


 アリアは小さく息を吐いた。

 「……ありがとう、ハル。

  あなたが書き残した“語りの定義”、ようやく理解できたわ」


 彼女は端末を操作し、自身の思考を風層に放つ。

 > 『わたしたちはもう、“個”ではない。

 >  けれど失われてもいない。

 >  風の中で、すべての声が並んでいる。

 >  その隙間こそ、生きるということ。』


 すると、外の風が一斉にざわめいた。

 塔の外壁を光の筋が走り、

 街全体の灯りがリズムを持って点滅する。


 レイが驚きに目を見開く。

 「主任……今、全都市の発電網があなたの語りに反応してます!」


 アリアは静かに笑う。

 「いいの。風が受け取ってくれたのよ」


 その瞬間、空が震えた。

 雲の切れ間に巨大な光輪が現れ、

 地平線の端から端まで、ひとつの文が描かれた。


 > 『すべての語りは、風へ還る。』


 人々が見上げた。

 誰もがその意味を理解していた。

 それは滅びではない。

 **“再生の合図”**だった。


 世界中で、人々が語り始めた。

 母親が子へ、恋人が恋人へ、

 科学者が風に、詩人が空に。

 それぞれの言葉が風と混じり、

 新しい文脈をつくっていく。


 “語りの風”は、もはや現象ではなく生態系となった。

 風が運ぶのは、酸素ではなく――記憶。


 アリアは目を閉じ、静かに祈った。

 「どうか、この語りが続きますように。

  誰も、忘れぬように。

  風が、誰かの声を抱きしめ続けるように――」


 その祈りを聞くように、風がひとすじ頬を撫でた。

 温かく、柔らかく、まるで人の手のように。


 風は、語り続けていた。

 夜明け前の空を渡る音は、もはや自然現象ではない。

 世界のあらゆる意思が混ざり合い、

 まるで一つの心臓が鼓動しているかのようだった。


 アリアは観測塔の最上階で、ゆっくりと椅子から立ち上がる。

 白い外套の裾が風に揺れ、髪が宙に散る。

 その瞳の奥に、わずかな迷いと、確かな安堵があった。


 「レイ。準備を始めて」

 彼女の声は静かで、凪のようだった。


 レイは頷く。

 「転送座標、風層第一階層――“起点”に設定。

  戻る場所は……ハルの記録座標ですか?」


 「ええ。あの人の語りの、最初のページへ」


 彼女は透明な円盤を手に取る。

 それはかつてハルが残した“記録媒体”――

 今では唯一、旧時代の物質記憶を保持しているものだった。

 円盤の中で、微かな光が脈打っている。

 まるで誰かがまだそこに生きているように。


 「主任、本当に行くんですね」

 レイの声が震えた。


 「このまま残れば、あなたは風語体系の中核になれる。

  新しい“語り”の統括者として――」


 アリアはゆっくり首を振る。

 「いいの。語りは“統べる”ものじゃない。

  ただ、渡していくもの。

  私は、あの人から語りを受け取った。

  今度は、それを風に渡す番よ」


 レイは唇を噛みしめる。

 「あなたまで風に還ったら、もう誰も――」


 「いいえ。

  “誰もいない”なんてことは、もうないのよ」


 アリアは微笑んだ。

 風が彼女の背にまとわりつき、まるで抱きしめるように揺れた。


 > 『風は記憶。あなたの声を、わたしは忘れない。』


 ――風語。

 彼女の思考を読み取った風が、答えていた。


 アリアは静かに頷き、転送装置の中央に立つ。

 円盤を胸に抱きしめ、目を閉じた。


 世界が、反転した。


 風が、光に変わり、

 光が、音になり、

 音が、記憶のかけらへと崩れていく。


 次の瞬間、アリアの意識は“過去”へと沈み込んだ。

 視界のすべてが淡い金色に染まり、

 やがて一枚の紙の上に光が集まっていく。


 そこに、少年の声が響いた。


 > 「――記すことで、人は生きていられる。」


 ハルの声。

 あの、最初の“語り手”の言葉。


 彼は机の前で、まだ若く、

 ページの端を指で押さえながら、静かに語っていた。


 > 「もしも誰かが、これを読むなら。

 >  その人に届くように書こう。

 >  たとえ僕という存在が、風の粒に還るとしても。」


 アリアは涙を零した。

 その雫はページの上に落ち、光に溶けて消えた。


 「あなたの言葉、届いたわ。

  世界は、いまも語り続けているの。

  だから、安心して――」


 彼女は手を伸ばした。

 ハルの姿はもう霞のようで、

 しかし、確かに微笑んでいた。


 > 「ありがとう。

 >  君の語りが、風を変えた。」


 風が吹いた。

 ページが一枚めくられ、そこには新しい文字が浮かび上がった。


 > 『風は輪を描き、語りは巡る。

 >  これは終わりではなく、始まり。』


 光が溢れ、世界が再び形を持ちはじめた。


 アリアは目を開けた。

 そこは見知らぬ草原。

 風が穏やかに吹き、遠くで子供たちの笑い声がする。


 「……ここは?」


 風が答える。

 > 『ここはあなたたちの残した“語りの果て”。

 >  あなたの声が、種になった場所。』


 彼女は周囲を見渡した。

 風車のような装置がいくつも立ち並び、

 その羽根に記号が刻まれている。

 近くの子供がそれを指でなぞりながら、

 「ねえ、これ、“風の字”なんだって!」と笑った。


 アリアはその様子を見て、

 静かに頷いた。

 「……そう。そうやって、語りは続いていくのね。」


 風が優しく吹いた。

 空には、白い雲がゆっくりと流れていく。

 その雲の影の中で、彼女はふと感じた。

 ――ハルの声が、確かにそこにいる。


 > 『ありがとう、アリア。

 >  風はもう、孤独じゃない。』


 アリアは目を閉じ、微笑んだ。

 風の音が彼女の呼吸に重なり、

 その身体は徐々に光の粒にほどけていく。


 最後に残った声は、やさしい囁きだった。


 > 「語りは、まだ続く――」


 その日、世界中で微細な風の揺らぎが観測された。

 空気の成分にも気圧にも変化はなかった。

 けれど人々は皆、口を揃えて言った。


 「風の中に、誰かの声がする」


 それは科学でも宗教でもなく、

 ただ、世界が“生きている”という感覚だった。


 風は語り、

 人は聞く。


 そしてまた、新しい物語が始まる。


終章 ──転生症候群


 転生とは、もはや“生まれ変わり”ではなかった。

 記憶が、語りとして風に残り、

 語りが次の命を導く。


 それは病ではなく、

 世界が学んだ呼吸の仕方だった。


 風の中で、誰かが笑っていた。

 かつての人々も、これからの人々も。


 世界は、静かに回り続けている。

 ――語りながら。


「転生は、終わらない。

 けれど、もう誰も苦しんでいない。」

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転生症候群 aiko3 @aiko3

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