第9話 語りの風、世界へ

 ――夜明けの風が、街を撫でていた。

 アリアが風層観測塔の頂上に立つのは、これが三度目だ。

 けれど今朝は、すべてが違って見えた。


 空は、まるで呼吸しているようだった。

 風が層を震わせ、青と白の筋がゆっくりと波打つ。

 それは“空の光”ではなく、“風そのもの”が放つ輝き。


 彼女の掌の上には、あの羽根があった。

 ――ハルが残した記録の鍵。

 今やその羽根は、淡い金色に脈動している。


 「主任、本当に……始めるんですか」

 レイが息を呑む。彼の手には送信装置。

 風のデータ層を通じて、全世界へ同時発信できる装置だった。


 アリアはゆっくり頷いた。

 「ええ。もう“封じる”時代は終わり。

  語りを恐れていたから、私たちは語れなくなった」


 彼女は塔の中央に歩み寄り、羽根を風層にかざした。

 瞬間、空気が震える。

 周囲のモニターが一斉に点灯し、音が流れ出す。


 > 『これは、風の記録。

 >  誰かが見た夢の欠片。

>  そして、今を生きる私たちの声でもある――』


 それは、ハルの声だった。

 何百年も前に消えたはずの“転生者の語り”。

 けれど今、確かに風を伝って届いていた。


 レイが震える声で言った。

 「主任……風が、“喋ってる”……!」


 アリアは微笑んだ。

 「いいえ。喋ってるんじゃない――“語ってる”のよ」


 風は広がる。

 塔の周囲の都市に、村に、荒野に。

 人々の髪を撫で、頬をかすめ、耳に触れる。


 その風を受けた瞬間、誰もが同じ幻を見た。


 ――古い図書館。

 ――見知らぬ青空。

 ――誰かが笑いながら本を閉じる音。


 子どもは泣き止み、老人は懐かしそうに空を仰いだ。

 兵士は銃を下ろし、科学者は手を止めた。

 世界のあちこちで、人々が同時に“語り”を思い出していた。


 それは感染にも似た現象だった。

 しかし、誰も恐れなかった。

 むしろ、懐かしい記憶に包まれていた。


 「主任、これ……制御が効きません!」

 レイが叫ぶ。

 装置のモニターには、風のデータ層が急速に拡大していた。


 「全世界同時共鳴。

  これ、予測を超えてます!」


 アリアは静かに言う。

 「止めないで。これは、誰かの声を奪うものじゃない。

  “語り”が“語り”を呼び合っているだけ」


 レイは言葉を失った。

 目の前で起きているのは、論理では説明できない現象。

 しかしその中心にいるアリアは、どこまでも穏やかだった。


 風が渦を巻き、塔全体が微光を放つ。

 空は大きく開き、光の帯が地平線まで伸びていく。


 そのとき、通信回線が一斉に開いた。

 各地の観測所、学術都市、風の都――

 あらゆる場所から、混線のような声が響いてきた。


 > 『こちら南層基地、観測機器が共鳴しています!』

 > 『人々が風を聞いて泣いている……何が起きてるんだ!』

 > 『これが“転生症候群”なのか? 違う……これは――』


 アリアはその声を聴きながら、ふと呟く。

 「“転生症候群”――あの呼び名も、そろそろ変える時ね」


 彼女は羽根を風に放つ。

 羽根はふわりと浮かび、風に溶けていった。


 「名前を変えることで、私たちは恐怖から解放される。

  これは病じゃない。

  人が人の声を思い出すための、自然な“呼吸”よ」


 風が強まる。

 塔の周囲に光の文字が流れ出す。

 誰かがどこかで語った言葉たち。


 > 「いつか、また会おう」

 > 「私の記録を託す」

 > 「風に、残す」


 それらは無数の言葉となり、夜空に文字列を描いた。

 まるで世界そのものが、ひとつの物語を語り始めたかのようだった。


 レイは目を見張る。

 「……主任。

  これ、世界が“自分の記録”を語ってる……?」


 アリアは頷く。

 「ええ。私たちはずっと風を“観測”してきたけど――

  本当は、ずっと“聞かれて”いたのよ」


 「聞かれて?」


 「そう。風は記録者。

  世界そのものが“語り手”なの」


 レイは息をのむ。

 それは、これまで彼らが追ってきたすべての理論を超えていた。


 アリアはゆっくりと目を閉じ、風の音に耳を澄ます。

 かすかに、あの声が聞こえた。

 ――ハルの声。

 ――少女の笑い声。


 「ありがとう」と、誰かが言った。


 アリアは微笑む。

 「こちらこそ。……あなたたちの語り、受け取ったわ」


 風が、応えるように吹き抜けた。

 それは優しい音だった。

 塔の上で、世界の呼吸がゆっくりとひとつに重なる。



 ――それは、感染のように静かに広がった。


 アリアが塔で風を解き放った翌日、

 世界各地で“語りの現象”が報告された。

 眠る人々の脳波が同調し、夢の中で同じ景色を見る。

 それは海辺であり、草原であり、古い図書館でもあった。


 けれどそのどれもに、共通して**「風」**が吹いていた。


 「……これが、“語りの風”」

 アリアは報告映像を見ながら呟く。

 モニターには各地の映像が並ぶ。

 砂漠の集落では老人が空に詩を唱え、

 北方都市では子どもたちが一斉に同じ歌を口ずさんでいた。


 どこかで誰かが語ると、

 それが風を介して別の誰かの夢に届く。

 夢を見た者は目覚めて、また誰かに語り直す。


 ――それが世界全体で、同時に起きている。


 レイは制御室の椅子にもたれ、呆然とした声で言った。

 「主任……これ、もう観測の域を超えてますよ。

  人類全体が“ひとつの夢”を共有してる……」


 「ええ、だからこそ“語り”なの。

  言葉が世界を繋ぐって、こういうことだったのね」


 アリアは端末を操作しながら、微かに笑う。

 風層の解析データには、新しいパターンが現れていた。

 周期的な波動――それは呼吸のようでもあり、心拍のようでもあった。


 「この波形、生命のリズムと一致してるわ。

  風が、世界の“心音”を取り戻しているのよ」


 レイは目を見張る。

 「まるで、地球そのものが生き返ってるみたいだ……」


 アリアは頷いた。

 「生きていたのよ、ずっと。

  ただ、私たちが聞こうとしなかっただけ」


 彼女の目には、夜明けの光が映っている。

 その光は、もはや人工の灯りではなかった。


 数日後。

 アリアは中央評議会から呼び出しを受けた。

 “語りの現象”を国家的危機と見なす派閥と、

 それを新しい文明の兆しと捉える派閥が、激しく対立していた。


 巨大な円形ホールに、各国代表が集う。

 その中央に、アリアが立つ。


 議長が低く問いかけた。

 「――アリア・エスト、君はこれを制御できるのか?」


 アリアは首を横に振った。

 「制御、という言葉が間違ってます。

  これは“流れ”です。

  風を止めようとしても、止まらないでしょう?」


 ざわめきが広がる。

 彼女は続けた。


 「人が語ることを、誰も止められない。

  それが生の本能だから。

  今起きているのは、世界が“思い出している”だけなんです」


 ひとりの委員が叫んだ。

 「だが、統制が取れん! 夢を共有するなど危険すぎる!」


 アリアは静かに答えた。

 「夢を共有するのは危険ですか?

  ならば、恐怖や争いを共有してきたこれまでの歴史は何だったんです?」


 言葉が、会場を刺した。

 沈黙が落ちる。


 「……風は、選ばない。

  善も悪も、命あるもの全てを通して渡っていく。

  私たちがするべきなのは、遮断じゃない。翻訳です」


 「翻訳?」


 「ええ。風が運ぶ“語り”を、それぞれの言葉で受け取る。

  理解できなくてもいい。

  ただ、聞く姿勢を持つこと。

  それが文明の再起動の条件です」


 しばらくの沈黙のあと、議長が呟くように言った。

 「……つまり、君は“語りの代弁者”を自任するのか」


 アリアは目を閉じ、頷いた。

 「ええ。私だけじゃない。

  すべての人が“代弁者”になれる時代が来たのよ」


 その瞬間、風がホールの天井を揺らした。

 外の空が明るく光る。

 まるで、彼女の言葉に呼応するように。


 会議が終わった後、レイが駆け寄ってきた。

 「主任……すごかったです。

  あの人たち、誰も反論できませんでしたよ」


 アリアは笑った。

 「反論なんていらないの。

  語りは議論じゃない。

  響けば、それでいいのよ」


 外に出ると、風が吹いた。

 その風に混じって、人々の声が聞こえる。


 > 「昨日見た夢、あなたも見た?」

 > 「あの丘、懐かしい気がした」

> 「風が笑ってたね」


 誰もが小さく笑っていた。

 知らない人同士が、初めて“同じ記憶”を持つ。

 それは、文明誕生以来の奇跡だった。


 アリアは空を見上げた。

 塔の先に、光の線が走る。

 ハルの残した記録が、また風に乗っているのだ。


 「語りは続く。

  ねえ、ハル。

  あなたが見た未来、少しは近づけたかな」


 風が答えた気がした。

 ――“まだ途中だよ”。


 アリアは笑って頷く。

 「そうね。私たちもまだ、語りの途中だもの」



 ――風が、記録を侵し始めた。


 全世界の情報網が微細な乱れを示し、

 通信の隙間に“声”が混ざる。

 それは言語でも電波でもなく、ただの風のような揺らぎ。

 しかし誰もが、その中に意味を感じ取った。


 > 『――きみの名を覚えている』

 > 『わたしは、まだここにいる』


 それは、かつて消えた人々の声だった。

 風は、忘れられた記録を掘り起こしていたのだ。


 研究者たちは恐れた。

 AI群は混乱し、過去のデータと現在の情報が混ざり合う。

 都市の広告スクリーンが一斉に書き換わり、

 かつての記録映像が夜空に投影された。


 アリアはその光景を見つめながら、深く息を吸った。

 「……始まったのね。語りの“選別”が」


 レイが声を上げる。

 「主任! このままじゃ、世界の記録構造が崩壊します!」


 アリアは首を振る。

 「崩壊じゃない――“変換”よ。

  風は、記録を“再構成”してるの」


 「再構成……?」


 「ええ。人が残したデータの中から、“語り”だけを選んでいる」


 モニターの映像が切り替わる。

 ニュース記事、SNS、古代文字、音声記録――

 それらの中から、嘘や模倣の情報は静かに消え、

 “本当に語られた言葉”だけが浮かび上がっていた。


 > 「生きたい」

 > 「守りたかった」

 > 「あなたに聞いてほしい」


 それらは時代も国境も越えて、同じ響きを持っていた。


 「……風は、選んでるんだ。

  “残すべき声”と、“静かに眠らせる声”を」

 レイの声は震えていた。


 アリアは静かに頷いた。

 「だから、私たちが“決める”必要があるの。

  この流れに、人の意志をどう重ねるかを」


 アリアは再び塔の頂へ上った。

 風が唸りを上げ、羽根状の装置が乱回転している。

 その中心で、アリアは記録端末を開いた。


 「ここから先は、語りの守護者として記す。

  風が選ぶだけじゃない。人も、選んで語らなきゃいけない」


 端末のカメラが光り、彼女の声が記録され始めた。


 > 『わたしたちは長く、過去を保存し続けてきた。

 >  けれど保存は、死と同じ。

 >  語りは生きている。だから、更新しなきゃならない。

 >  風は問う。あなたは何を残し、何を忘れるか、と。』


 その声が風に混じる。

 そして、世界中の誰かの耳に届く。


 老人が古い手帳を閉じる。

 兵士が壊れた銃を地に置く。

 子どもが母に、夢の話を語る。

 それぞれの記録が、静かに更新されていく。


 風が媒介し、人の心が編集者となる。

 それは人類が初めて、**“記録を自らの手で選び取る”**瞬間だった。


 夜、塔の上。

 アリアは風に髪をなびかせながら、ひとり語り続けていた。


 「ハル、あなたは“記録の終わり”を恐れていたんでしょう?

  でも今ならわかる。

  終わりがあるからこそ、語りは命になる」


 風が応えた。

 遠くで誰かが笑うような音がした。


 > 『語れ。

 >  風はまだ途切れていない。』


 アリアは小さく頷く。

 「ええ、語るわ。

  風が聞いてくれる限り、何度でも」


 彼女の背後では、世界の光がゆっくりと脈打っていた。

 都市の灯が呼吸のように明滅し、

 大気層のデータ波が心拍のように震える。


 やがて、彼女の記録は風に溶け、

 新しい“語り”として世界を巡った。


 > 『これは、風と人と記録の物語。

 >  すべての語りは、誰かの転生。

 >  そして――わたしたちが選んだ未来の始まり。』


 風が静かに塔を抜ける。

 光は淡く、優しく、

 けれど確かに、次の夜明けの匂いを孕んでいた。

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