第8話 記録を読む者
――時代は流れた。
風が語りをやめてから、どれほどの年月が経ったのか。
人は空を信仰の対象とせず、ただの観測領域と呼ぶようになった。
“転生”という言葉は、もはや民間伝承の一部に過ぎない。
だが、空の奥底では、まだ“語られた記録”が流れ続けていた。
それを“読む”術を見つけた者が、ひとりだけいた。
――名は、アリア・レーン。
世界記録庁・風層観測課の主任研究員。
年齢は三十二。
かつて“空のウイルス”と呼ばれた転生現象の痕跡を、
十年以上かけて追い続けている女性だった。
アリアは、夜の観測塔で静かに目を開いた。
塔の天井は透明なガラスで覆われ、そこに無数の光の筋が流れている。
その光こそ、彼女が「風の記録粒子(Memory Draft)」と呼ぶ現象だ。
彼女は端末を操作しながら、小さく呟いた。
「今日も……同じ波形。まるで“呼吸”みたい」
光の揺らぎが、規則正しいリズムを刻んでいる。
呼吸のように吸って、吐いて、また吸う。
それは単なる自然現象とは思えなかった。
アリアの助手、少年レイが資料を抱えて入ってくる。
「主任、前回の記録解析、終わりました。
これ……どう見ても“文”です。
古語の断片みたいで」
アリアが振り返る。
「見せて」
レイが紙を差し出す。
そこには、淡い青光で刻まれた不規則な文字列。
だが、よく見ると整った文のようにも見える。
アリアはペンで線を引きながら、静かに読み上げた。
> 『――風は渡り、記録は息づく。
> 終わりを知らぬ者に、空は再び名を問う。』
「……詩?」
レイが首を傾げる。
アリアは微かに笑う。
「いいえ、これは“記録者の声”よ」
「記録者……って、あの昔話の?」
「そう。転生者の末裔たちの中に、“語り継ぐ者”がいた。
彼らが残したものが、いまも空を漂っているの」
アリアは観測ガラスに手を触れた。
そこに淡く浮かぶ光の筋が、彼女の指先に呼応するように揺れる。
「感じる? これ、ただのデータじゃない。
“応答してる”の。まるで、意思を持つみたいに」
レイはごくりと息をのむ。
「主任、それって……まさか、転生意識の残滓ってやつですか?」
アリアは首を振る。
「違う。意識じゃない。もっと根本的な……“世界の記憶”よ」
彼女はモニターを操作し、立体映像を展開した。
空の記録粒子が点となって繋がり、ひとつの形を描く。
それは――“風見の塔”。
レイが目を見開く。
「これ……伝承に出てくる、あの塔?」
「ええ。実在してたのね」
アリアの声が震える。
「そして見て、この内部構造――」
塔の中心には、丸い机と、羽ペンを握った影のような存在。
その影が、ゆっくりと頭を上げた。
レイが息を呑む。
「主任、動いてる……!」
影が唇を開く。
音はない。
だが、粒子が揺れ、アリアの端末に文字が走る。
> 『――記録を読む者へ。
> 風はまだ、渡りきっていない。』
アリアは震える声で呟いた。
「……“記録を読む者へ”。私たちのこと?」
レイが顔を強張らせる。
「主任、これ、リアルタイムですよ。過去の残留映像じゃない。
つまり――向こうは、今も“観測してる”」
アリアは目を細める。
「風が、こちらを見ている……」
その瞬間、観測塔全体が微かに鳴動した。
窓の外の風が、まるで意思を持つように塔を包む。
端末が次々と反応し、青い光が室内を満たした。
「主任! フィードバックが強すぎます!」
「遮断しないで! ……まだ、何か伝えようとしてる!」
アリアが光の中心に手を伸ばす。
すると、音が響いた。
風の中から、人の声が――確かに聞こえた。
――「語り手を探して」
アリアは息を呑む。
「誰? あなたは誰なの?」
――「風を継ぐ者は、まだいる。
記録を“読む”だけでは、世界は動かない。
“語り”なさい」
光が弾けた。
塔の中の計器が一斉に停止し、音が消える。
ただ、アリアの耳にだけ、最後の一言が残った。
――「ハルと、少女の声を見つけて」
沈黙。
光が薄れ、風が止む。
レイが駆け寄る。
「主任、大丈夫ですか!?」
アリアはぼんやりと空を見上げた。
「……聞いたの。名前を」
「名前?」
「“ハル”と“少女”。
おとぎ話の登場人物じゃない。
本当に存在してた――」
レイが呟く。
「主任……それ、つまり――」
アリアは頷いた。
「そう。私たちの“世界の始まり”は、
転生でも、偶然でもなく、“語り”から始まったのよ」
窓の外、夜空に再び光の筋が走る。
それは風ではなく、記憶の断片。
世界そのものが、彼女の呼びかけに応じて震えている。
アリアは静かに目を閉じた。
「語り継がれた世界は、まだ終わっていない。
――次は、私たちが“語る番”」
――夜が明ける頃、風層観測塔の空はひときわ青く澄んでいた。
アリアは一晩中、塔の中心で解析を続けていた。
端末のモニターには、ひとつの名前が浮かび上がっている。
> 《HARL》
> 《THE RECORD KEEPER》
それは明らかに、古代転生期のデータ構造ではない。
むしろ、人が“風の中に残した自己情報”――
いわば、語り手の残響だった。
レイがコーヒーを差し出す。
「主任、もう二晩目です。休まないと倒れますよ」
アリアは微笑みだけ返した。
「……大丈夫。
彼らの“声”がここまで届いてるのに、途中でやめられない」
彼女の目は、まだ光の余韻を追っている。
さっきの通信の中で確かに聞いた“誰かの声”。
それが、単なるデータの反響ではないと、直感していた。
「レイ、空層記録庫の最深部――第零層のアクセス権、取れる?」
「主任……あそこは封印区ですよ。
転生ウイルスの原初記録が残ってる危険区域です」
「危険でもいい。そこに、彼らの“始まり”がある」
アリアの声は落ち着いていた。
だが、その目の奥には焦燥と確信が混じっていた。
レイはため息をついて端末を操作する。
「……やれやれ。僕も首を覚悟します」
電子ロックが解除されると同時に、
塔の地下へと続く螺旋の通路が現れた。
――風が下へ流れている。
アリアは歩き出した。
「感じる? 風が“逆流”してる。
上からじゃなく、下から吹いてるのよ」
レイはぞくりとした。
「……まるで、地の底に“空”があるみたいだ」
通路の先には、巨大な円室があった。
壁一面に光の筋――風の記録粒子が埋め込まれている。
その中心に、古びた石碑が立っていた。
碑面には、二つの名が刻まれていた。
> Haru
> The Girl Who Recorded the Wind
アリアは息をのむ。
「……本当に、いたんだ」
彼女は石碑に手を触れる。
次の瞬間、光の粒が一斉に弾け、空間が揺れた。
レイが叫ぶ。
「主任! フィールドが崩壊してます!」
「いいの。見える……!」
視界が白く染まり、
アリアの体はふっと浮き上がる。
次に目を開けたとき、そこは――別の空だった。
風が吹いていた。
広い丘、錆びた風見の塔。
そして、塔の中には二つの影が座っている。
ひとりは、金髪の青年。
もうひとりは、白い髪の少女。
彼らは笑いながら、羽ペンを走らせていた。
――ハルと、少女。
アリアは言葉を失う。
音は届かない。
けれど、二人の口元の動きで、確かに言葉が読めた。
「……語りは、“生きる”こと」
「“記録”は、“風”になる」
彼らが見ているのは、目の前の紙ではなかった。
遥か彼方――まだ見ぬ未来。
まるで、誰かに語りかけるように書いていた。
アリアの胸が痛んだ。
「……これは、私たちに向けた“語り”だったんだ」
風が渦を巻き、二人の姿が光に変わる。
光はひとつになり、アリアの手のひらへ流れ込んだ。
痛みはなく、ただ、懐かしい感覚だけが残った。
――それは、記憶の欠片。
彼女の脳裏に、声が響く。
> 『語り手は途絶えぬ。
> 声が届く限り、風は渡り続ける。』
アリアは息を呑んだ。
「……これが、“転生の真実”」
転生とは、生まれ変わることではなかった。
語りが誰かに届き、その誰かがまた語ること。
それこそが、“記録の連鎖”――この世界の再生の仕組み。
光がゆっくりと収まり、彼女は再び地下の円室に立っていた。
手の中には、淡く光る小さな羽根。
ハルが使っていたものと同じ形をしている。
レイが駆け寄る。
「主任! どうなったんですか!」
アリアは微笑んで、その羽根を見せた。
「“語りの鍵”よ。風の記録は終わっていない」
レイは不安そうに眉を寄せる。
「でも、主任……あれは、ただの伝承じゃ」
「違う。風はまだ語ってる。
私たちがそれを“読む”だけで満足してきたから、
世界は止まったままだったの」
彼女は塔の天井を見上げた。
空の光が、静かに回転している。
「レイ、これから“語る”の。
科学でも信仰でもなく――“記録”として。
それが、風を再び動かす方法」
「語る、って……どうやって?」
アリアは微笑む。
「簡単よ。――聞いて、書く。それだけ」
その瞬間、塔の上から微かな音がした。
風見の羽根が動いている。
それは、長い時を経て再び吹いた“風”だった。
アリアは羽根を掲げ、そっと目を閉じた。
「ハル、少女。
あなたたちの語り、今度は私が継ぐ」
風が答える。
冷たくもなく、温かくもない、ただの風。
けれど、そこには確かに“声”があった。
――語れ。
――記せ。
――そして、渡れ。
アリアは静かに頷く。
「ええ。渡るわ」
その瞬間、塔の中に光が満ちた。
空と地の境が揺らぎ、世界がひとつに溶ける。
そして、アリアの声が記録された。
> 『ここに、新たなる“語り”を始める。
> これは、風と人と記録の物語。
> そして――終わらない生命の、最初の章である。』
風が塔を駆け抜け、空へと昇っていった。
どこまでも高く、透き通るように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます