第7話 空を渡るもの

 風が止んだ後の空は、ひどく静かだった。

 音がすべて遠くに退き、世界が息をひそめている。

 ハルと少女は、ゆっくりと歩き出した。

 リトが消えた谷を背にして。


 「……本当に、行っちゃったね」

 ハルの声には、まだかすかな震えが残っていた。


 少女はうなずき、足元を見つめた。

 風が去ったあと、地面には小さな光の欠片が散らばっている。

 それは、風の子が残した“道しるべ”のようだった。


 「きっと、ここから始まるんだと思う」

 少女は光をひとつ拾い上げ、掌にのせた。

 指先から、温かな風のような感触が伝わってくる。

 「リトは“風に還る”って言ってたけど、

  本当は“風になる”ってことなんだと思う」


 ハルは小さく笑って、頷いた。

 「たしかに。あいつらしいね」


 光の粒がふっと浮かび上がり、前方へ流れていく。

 まるで、彼らを導くように。


 二人は歩き出した。

 風の道を辿りながら、空の下を進む。


 空の色は、少しずつ変わっていた。

 青から銀へ、そして淡い金へ。

 それは、空そのものが“記憶の層”を持っているようだった。


 「ねえ、ハル。

  もし、空が全部の記録を覚えているとしたら……」


 「うん?」


 「転生も、風も、声も。

  全部、“空の記憶”の中にあったのかもしれない」


 ハルは黙って空を見上げた。

 風のない空は、鏡のように静かで、どこか怖いほど透明だった。


 「じゃあ、僕たちはその記憶の中を歩いてるのかもね」


 「そう。だから、今見てる景色も――もしかしたら“誰かが見た夢”なのかも」


 その言葉に、ハルは少し笑って首を振った。

 「それでも、僕は現実だと思いたいな。

  夢の中にいても、“君がいる”なら、十分だよ」


 少女は少しだけ目を伏せた。

 「……優しいね、ハル」


 「違うよ。ただ、忘れたくないだけ」


 その声は風のように柔らかく、

 けれど確かな“生”を感じさせた。


 やがて、地平線の向こうに淡い光が見えてきた。

 それは空と地の境目で揺れる、巨大な鏡のようなものだった。


 「……あれが、“空の記録”?」

 少女が立ち止まる。


 風の道はその鏡へと続いている。

 近づくにつれ、空気が変わった。

 音が遠のき、時間の流れが緩やかになっていく。


 鏡の表面は、まるで水面のように揺らいでいた。

 そこに映るのは――無数の“人の姿”。


 笑う人、泣く人、手を伸ばす人。

 それぞれの表情は一瞬ごとに変わり、やがて光に溶けていく。


 「これ……転生前の人たち?」

 ハルが呟く。


 少女は鏡に手を伸ばした。

 触れた瞬間、波紋のように光が広がる。

 耳の奥で、無数の声が響いた。


 ――生まれたくない。

 ――もう一度、生きたい。

――忘れたくない。

 ――思い出したくない。


 そのどれもが、過去の祈りであり、後悔だった。

 そして、その奥から、ひとつの声が浮かび上がった。


 ――「まだ、終われないんだ」


 少女の心臓が跳ねた。

 聞き覚えのある声だった。

 低く、穏やかで、それでいてどこか切実な響きを持つ。


 「……この声、知ってる」

 彼女の目に、淡い涙がにじむ。


 ハルが振り向く。

 「誰の声?」


 「昔、私を導いた人。

  転生の混乱を鎮めようとして、

  最後に“自分の魂を空へ還した”――あの人の声」


 空の記録が揺れる。

 光の層がめくれ、世界が逆流するように映像が流れ始めた。


 少女とハルはその光に包まれる。

 視界が白に染まり、足元が消える。


 気づけば、二人は高い空の中に立っていた。

 地平は見えず、上下の感覚もない。

 ただ、漂う光の粒が静かに流れている。


 そこに、ひとりの男がいた。

 白い外套をまとい、穏やかな笑みを浮かべている。


 「やあ……君たち、来てしまったんだね」


 少女は息をのんだ。

 「……師匠……!」


 男は微笑んだ。

 「その呼び方、懐かしいな。

  でも今の私は、ただの“記録”だ。

  君が残した声を、空が拾って形にしたんだよ」


 ハルが前に出る。

 「じゃあ、あなたはもう――」


 「生きてはいない。

  けれど、“まだ終わっていない”んだ」


 男の声は、風のように柔らかかった。

 「転生という仕組みが、なぜ壊れたか知っているかい?」


 少女は首を振る。

 男は空を見上げた。


 「人が、“終わり”を信じなくなったからだ。

  誰もが“もう一度”を望み、

  その祈りが世界を濁らせた。

  終わらない命は、やがて“記録を失う”。

  記録を失った魂は、ただ漂うだけの風になる」


 少女の目に、リトの笑顔が浮かんだ。


 「……じゃあ、リトは……」


 「彼は例外だ。

  “再生”ではなく、“始まり”を選んだ。

  だから、風が彼を形にした。

  君たちが“記録する”ことを続ける限り、

  あの子のような命が、きっとまた生まれる」


 男は静かに目を細めた。

 「君たちの役目は、もうすぐ終わる。

  空は再び動き出そうとしている。

  ……だから、恐れるな。

  次の風が吹くとき、君たちは“世界のページ”になる」


 少女は何かを言おうとしたが、

 その瞬間、男の体が光の粒になって散っていった。


 風が吹く。

 音も、色も、記憶も、その中に溶けていく。


 ハルが呟く。

 「空が、渡っていく……」


 少女は頷いた。

 「――あれが、“空を渡るもの”」


 光が二人を包み込む。

 次の瞬間、彼らは再び地上に立っていた。

 風が吹いている。

 どこまでも、やさしく、確かな風が。



 風が止んだ後の静寂の中、二人はしばらく動けなかった。

 さっきまで確かにそこにいた師の姿は、完全に消えていた。

 だが――残響のように、彼の言葉だけが空の底にこだました。


 「……“世界のページ”になる、か」

 ハルが呟いた。


 少女は地面に手をつく。

 掌に、細かな砂が当たる。風が新しく吹きはじめていた。

 それは、さっきまでの冷たい風とは違う。

 温かく、柔らかく、まるで誰かの息づかいのようだった。


 「きっと、師匠の言葉は――風になって残ってる」

 少女の声は、静かだったが、どこか希望を含んでいた。


 ハルは頷き、空を見上げる。

 「風が語る世界、か。

  記録って、ただ“残す”ことじゃないのかもね。

  誰かが“感じて”、それを“語り継ぐ”……そういうことなんだろう」


 少女は微笑む。

 「だから、私たちはまだ終わらない」


 二人は再び歩き出した。

 足元の砂が、きらきらと光っている。

 まるで風の粒が、彼らの行く先を照らしているようだった。


 空の色が変わる。

 青が金に、金が橙に、そしてやがて群青へと。

 そのたびに、世界の“記録”が一枚ずつめくれていくようだった。


 やがて、丘の上に出た。

 そこには、古びた風見の塔が立っている。

 塔の上には、錆びた羽根車――もう何十年も動いていない。


 「……ここ、風の終わりの場所だ」

 少女がつぶやいた。


 「風の終わり?」


 「昔、転生の最初の“記録者”たちがここで誓ったんだ。

  “風が止まるとき、私たちは記録を託す”って。

  でも……もう、誰も来なくなって久しい」


 少女は塔の中へ入る。

 薄暗い階段を上がり、最上階の小部屋にたどり着く。

 そこには机が一つ、そして古びた羽ペンと紙束が置かれていた。


 ハルがその紙を手に取る。

 表紙には、淡い文字でこう書かれていた。


 > 《風の記録 第零巻》


 「……これが、“最初の記録”?」


 少女は頷き、静かに座った。

 そして、羽ペンを手に取る。


 「書くの?」


 「うん。でももう、“転生の記録”じゃない。

  今度は、“渡った風の物語”を書く」


 ハルは隣に座り、静かに見守る。

 少女は深呼吸して、最初の一文を記した。


 > 『ここに、“風を渡った者”たちの記録を残す。

 >  彼らは再生を望まず、ただ世界を見つめ、語り継いだ。』


 ペンの音が、風のように軽やかに響いた。

 ページが進むたびに、外の空が少しずつ明るくなっていく。


 ――風が戻ってきていた。


 塔の外で、錆びついた風見の羽根がゆっくりと回り始める。

 最初は軋むように、次第に滑らかに。

 その音は、まるで懐かしい旋律のようだった。


 ハルが窓辺に立つ。

 「……見て。風が、また動いてる」


 少女も立ち上がる。

 塔の外では、光を帯びた風が谷を越え、遠くの空へ流れていた。

 その中に、小さな影が見えた。


 ――リトだった。


 笑っていた。

 両手を広げ、空を渡っていた。

 もう、どこにも縛られず、ただ風として、世界をめぐっていた。


 少女は微笑んで、目を閉じた。

 「ありがとう、リト。

  あなたの“始まり”が、きっと誰かの“続き”になる」


 ハルが肩を並べ、静かに頷く。

 「……ああ。風は止まらない」


 風見の羽根が、さらに速く回った。

 空が明るくなり、塔の影が長く伸びていく。

 まるで、世界そのものが呼吸を取り戻したようだった。


 やがて、少女は手帳を閉じた。

 「これで、私たちの“記録”もひとまず終わり」


 ハルは静かに笑う。

 「終わりじゃなくて、“始まり”だろ?」


 少女は少しだけ照れて頷いた。

 「……そうだね」


 塔を出ると、風が二人の髪を揺らした。

 遠くの空で、無数の光が流れていく。

 風の粒――いや、“語られた記憶”たちだった。


 その一つひとつが、新しい世界の“物語”へと変わっていく。


 ハルが立ち止まる。

 「……なあ、もし次の世界があるなら、また君と歩けるかな」


 少女は笑った。

 「ううん、次の世界じゃなくてもいいよ。

  “この風の中”でなら、いつだって会える」


 風が吹いた。

 彼女の髪が光を受け、金色に揺れた。

 その瞬間、空に一筋の光が走る。


 ――それは、風が世界を渡る音だった。


 「さあ、行こう」

 少女が歩き出す。


 風が彼女の背を押す。

 ハルも続く。


 そして二人は、風の道の向こうへと消えていった。

 彼らの後に、淡い光の帯が残る。


 それはやがて、夜空を横切る流星のように、

 ひとつの形を結びながら――遠くへと消えていった。

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