第6話 風の記憶
空は、どこまでも澄んでいた。
風がやわらかく草原を撫で、遠くで鳥の影が円を描いていた。
少女とハルは谷を離れ、丘を越えて歩いていた。
足もとには白い花が咲き、風が吹くたびに小さく震える。
その音はまるで、言葉を探しているかのようだった。
「ねえ、ハル」
少女が立ち止まる。
「記録って、どうやって残すものなんだろう?」
ハルは首を傾げた。
「君の中にあるんじゃないの? 全部、覚えてるんだろ?」
「うん。でも、それは“記憶”であって、“記録”じゃない気がする」
少女は空を見上げた。
「誰かに伝えられなきゃ、ただ消えていく夢みたいなものだから」
風が頬を撫でる。
草の音と、鳥の鳴き声が溶け合う。
その中で、少女の瞳が揺れた。
「――だから、話そうと思うの。
あの谷で見たこと、聞いた声、出会った人たち。
“語る”っていう形で残す」
ハルは少し笑って肩をすくめた。
「語る、か。いいね。
記録の守り人から、語り部に転職だ」
「そういうの、ハルにぴったり」
「え、僕?」
「うん。だって、あなたは“聴く”のが上手だから」
ハルは照れくさそうに笑い、風を見送った。
「……なら、聞かせてよ。君の物語を」
少女は頷いた。
そして、草の上に腰を下ろした。
風の中で、静かに目を閉じる。
「――むかし、世界がひとつの声を失った。
言葉を忘れ、祈りを失くし、ただ沈黙だけが残った。
けれど、その沈黙の中で、ひとりの人が記した。
“見たことを残す”ために。
それが、世界の再生のはじまりだった――」
少女の声は、風とともに流れていく。
まるで草原そのものが聴いているようだった。
ハルは目を閉じた。
声が、映像のように脳裏に広がる。
谷、光、影、そして最後に笑った男の顔。
少女は淡々と語り続ける。
けれどその声は不思議と温かく、聴く者の心を包んでいく。
やがて、話が途切れた。
少女は息をつき、目を開けた。
「……どうだった?」
「いい話だよ。少し切なくて、でも、どこか希望がある」
「それなら、よかった」
少女は微笑み、草の上に手を置いた。
「ねえ、ハル。風が、覚えてくれる気がするの」
「風が?」
「うん。言葉を流していく代わりに、どこかに運んでくれる。
誰かがそれを感じたら、また物語が始まるんじゃないかな」
ハルはその言葉を聞きながら、ふと考えた。
――この世界には、誰がいるんだろう。
谷の“残響”は眠りについた。
では、次に物語を聴く者は?
そのときだった。
風の中に、かすかな声が混じった。
「……だれか、いますか」
ハルと少女は同時に顔を上げた。
丘の向こう、光の揺らめく地点に、小さな人影が見えた。
「生きてる……?」
ハルの声が震える。
少女は立ち上がり、慎重に歩き出した。
やがて、その影が近づいてくる。
白い布をまとい、砂のような金髪を揺らす少年だった。
瞳は透きとおるような灰色。
だが、どこか焦点が合っていない。
「あなた、どこから来たの?」
少女が尋ねる。
少年は小さく首を傾げた。
「わかりません。気がついたら、ここにいて……」
「名前は?」
「……名前、ですか」
少年は考えるように口を閉じ、やがて言った。
「風が、“リト”と呼びました」
ハルと少女は目を見合わせる。
風が名前を与えた?
「リト。覚えてることは?」
「……少しだけ。何かを見ていた気がする。
でも、思い出そうとすると、痛い」
そう言って、少年はこめかみを押さえた。
少女はその手をとり、穏やかに言った。
「無理しないで。思い出さなくていいの。
あなたが“今、ここにいる”ってことが、大事だから」
リトの瞳が、かすかに揺れた。
「……いること、が大事」
「そう。
わたしたちは記録を見つけるけれど、
あなたは“いま”を生きてる」
ハルが少し考え、笑った。
「つまり、僕らが書く“これから”の登場人物ってことか」
リトは首をかしげた。
「登場人物?」
「うん、物語の中で生きる人。
君の言葉や行動が、誰かの記録に残るんだ」
少年は小さく笑った。
「それなら……少しうれしいかもしれません」
その笑顔に、少女は息をのんだ。
その表情が、かつての誰かに似ていた。
――もしかして、また“残響”の記録?
けれど、違った。
リトの中には、確かに“今”があった。
彼の瞳は、過去ではなく未来を見ていた。
風が再び吹き抜ける。
花々が揺れ、空に光の粒が舞う。
少女は小さく呟いた。
「風が、また物語を運んできたんだね」
ハルが頷く。
「そして、僕らはその続きを書く」
三人は丘の上に立ち、遠くを見渡した。
地平線の向こうには、まだ知らない世界が広がっている。
リトがぽつりと言った。
「――風の向こうに、人がいる気がします」
少女は微笑んだ。
「じゃあ、行こう。風の記憶を追って」
その瞬間、草原の花々が一斉に舞い上がった。
風が歌うように響き、世界がゆっくりと動き始める。
まるで、新しいページが開かれたように。
風は、途切れることなく吹き続けていた。
空の高みに雲がひとつ、ゆっくりと形を変えていく。
リトがその雲を指差した。
「見てください。あれ……鳥に見える」
少女とハルも空を仰いだ。
確かに、雲は翼を広げた鳥のような形をしていた。
けれど、見ているうちに、それは魚にも、花にも、灯にも変わっていく。
「……形を決めるのは、見る人なんだね」
少女が呟くと、ハルが頷いた。
「風の記憶も、同じかもしれない。
誰かが見ようとすることで、形になる」
リトは不思議そうに二人を見た。
「風にも、記憶があるんですか?」
「あると思う」
少女は微笑んだ。
「風は通り過ぎていくけど、何も持たないわけじゃない。
音や匂い、涙や笑いを運んでいく。
それを“記憶”と呼ぶなら、風は世界でいちばん古い語り部だよ」
リトは少し考え、それから言った。
「じゃあ……ぼくは、その記憶から生まれたのかもしれません」
少女とハルは目を見合わせた。
「どういうこと?」
「さっき思い出したんです。
ぼく、風の中で眠っていました。
でも、“声”が聞こえたんです。
――『もう一度、始めていい』って」
ハルの眉がわずかに動いた。
「それって、“転生の声”じゃないのか?」
「違うと思う」
リトはゆっくり首を振った。
「転生って、誰かの願いが“もう一度”を求めることでしょう?
でも、その声は違った。
“君が始める世界を、見てみたい”って言ってたんです」
少女の胸が震えた。
――それは、再生を願う声。
過去の焼き直しではなく、未来への許可。
「……それなら、リト。
あなたは“風が生んだ最初の子”かもしれない」
リトは戸惑いながらも、微かに笑った。
「それなら、ぼくは“風の子”。
悪くないですね」
三人の笑い声が風に溶けていった。
しばらくして、彼らは丘を下り、細い谷間に入った。
岩の隙間から吹き抜ける風が、まるで笛のような音を立てる。
それは、懐かしくもどこか切ない旋律だった。
「この音……」
ハルが立ち止まる。
「聞いたことがある。あの“光の谷”で、最後に響いてた音だ」
少女の胸に記憶が蘇る。
あの夜、残響たちが光に還った瞬間、
確かに同じ風の音が鳴っていた。
リトがそっと谷壁に触れた。
岩肌がかすかに光る。
その中には、無数の小さな文字が浮かび上がっていた。
「これ……」
「記録、だ」
ハルが息をのむ。
「風が通るたびに刻まれた“声”だよ」
岩壁に指をなぞると、音がした。
それは、遠い昔の人々の言葉。
“ありがとう”
“また会おう”
“生きて”
――短い言葉のひとつひとつが、風の粒のように散っていた。
リトはその光景を見つめながら、小さく微笑んだ。
「……風は、全部覚えてるんですね」
少女は頷き、掌を岩に添えた。
「うん。
転生の記録じゃない。
“生きた証”としての記憶。
それが風の記録なんだ」
彼女の掌から光が広がる。
岩壁の文字がゆっくりと浮かび上がり、風の流れに乗って空へと散っていく。
その光は淡い虹の帯になり、空の高みに吸い込まれていった。
ハルが呟く。
「これが……風の記憶の解放」
少女は静かに目を閉じた。
「ううん、違うよ。
これは“受け継ぎ”だと思う。
わたしたちが見つけた記録を、次の風へ渡すだけ」
その時、リトの髪が強くなびいた。
風が一瞬、彼のまわりで渦を巻く。
その中心で、彼の体から淡い光が漏れ出した。
「……リト!」
少女が駆け寄る。
だが、リトは微笑んだまま首を振った。
「大丈夫。
ぼく、風と一緒に思い出してるだけ」
彼の声が、風と溶け合うように柔らかく響く。
「ねえ、わかったんです。
ぼくは“風の記録”そのものなんだ。
消えた人たちの想いが集まって、ぼくという形になった。
だから、あなたたちに出会えた」
ハルが震える声で言う。
「じゃあ、君はいずれ……」
リトは優しく笑った。
「ええ、いずれ風に還ります。
でも、それでいいんです。
あなたたちが次の記録を作るなら、ぼくはそれを運ぶ風になります」
少女の目に涙が滲んだ。
「そんなこと、言わないで」
「泣かないでください」
リトは微笑みながら、手を差し出した。
「ぼくが消えるわけじゃない。
風が吹くたび、きっと近くにいます」
彼の姿が光に溶けていく。
風がやわらかく吹き抜け、草の海が波打った。
そのすべてが、リトの声のように感じられた。
――“もう一度、始めていい”
その言葉が、少女の胸の奥で静かに響いた。
やがて風が止み、静寂が戻る。
少女とハルは、長い間その場に立ち尽くしていた。
「……行こう」
少女が小さく呟く。
「リトが運んだ“風の道”を辿ろう」
ハルは頷き、涙を拭った。
空を見上げると、遠くで雲が形を変えていた。
それは、まるで“笑う少年”の横顔のようだった。
風が再び吹く。
物語は、まだ続いている。
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