第5話 記録の子ら
――世界に、言葉が生まれた。
まだ誰も教えたわけではない。
けれど、少女と少年は互いの目を見つめるだけで、意味が通じた。
それは“理解”というより、“響き”だった。
心が共鳴して、音が言葉になる。
少女は彼に名を与えようとした。
けれど、どんな言葉を選んでも違う気がした。
“誰かの名”を真似したくはなかった。
だから、彼女は少し考えてから言った。
「――君は、ハル」
少年は首をかしげた。
「ハル?」
「うん。あたたかい風の名前。今日の風みたいだから」
ハルは、しばらく考えるように目を閉じた。
やがて小さく笑って言った。
「じゃあ、君は?」
少女は答えようとしたが、胸の奥で何かが疼いた。
名を呼ばれたような気がした。
けれど、その声は遠く、掠れていて、もう届かない。
「……わたしは、まだいらない」
「どうして?」
「名前って、きっと“帰る場所”だから」
ハルはその言葉を理解できなかった。
けれど、少女の表情を見て、それ以上は聞かなかった。
彼は代わりに、近くの草を撫でて言った。
「この世界、静かだね」
「うん。でも、寂しくない」
二人はしばらく黙っていた。
風が吹き、木々が揺れ、どこかで小さな獣の鳴き声がした。
新しい命が、少しずつ世界に満ち始めていた。
草原の奥に、光の糸が流れていた。
川だった。
水面は滑らかにきらめき、魚のような影が泳いでいる。
二人は並んで川辺に座った。
ハルは水をすくい、掌に光を映した。
「これ……冷たい。けど、気持ちいい」
少女はそれを見つめ、ふと呟いた。
「この光、見たことがある気がする」
「どこで?」
「夢の中で。……誰かが“光は記録だ”って言ってた」
ハルは少し考えてから、水面に手を浸した。
「じゃあ、川の中にも誰かの記憶が流れてるのかな」
少女は頷いた。
そして、水面に映る自分たちの姿を見つめる。
光がゆらぎ、影が二つ、ひとつに重なった。
その瞬間、彼女の胸に痛みが走った。
――ああ、知っている。
この痛みも、寂しさも、別れも。
世界が何度壊れても、きっと人は同じ痛みを繰り返す。
だが、彼女はその感情を拒まなかった。
これは“転生の残りかす”ではなく、
受け継がれた想いだと気づいていたから。
「ハル」
「ん?」
「この世界を、見ていこう。全部、覚えていよう」
ハルは驚いたように目を瞬いた。
「覚える?」
「うん。わたしたちは“記録の子ら”なんだと思う。
誰もが消えたあとの世界で、最初に生まれた。
だから、次に生まれるものたちに、“この世界があったこと”を伝えなきゃ」
ハルは黙って少女を見つめた。
その瞳の奥には、どこか懐かしい光が揺れていた。
やがて、彼は微笑んだ。
「……わかった。じゃあ、ぼくたちが“最初の記録”だね」
少女は頷き、空を見上げた。
雲が流れ、太陽が昇り、風が草を撫でていく。
そのすべてが、確かに“動いている”。
そして彼女の胸の奥でも、何かが動き始めていた。
――それは、「想いを紡ぐ力」。
言葉も筆もいらない。
ただ、見ること、感じること、その全てが記録になる。
少女が世界を見つめるだけで、光の粒が空に昇り、形を成していった。
それはまるで、彼女の視線が“世界の物語”を描いているようだった。
ハルがそれを見て、目を見開いた。
「ねえ、それ……君がやってるの?」
少女は首を振った。
「わからない。でも、きっと“わたしじゃない誰か”も見てる」
ハルは少し考え、空に浮かぶ光を指差した。
「じゃあ、その誰かも記録してるんだ。君のことを」
少女は笑った。
「なら、寂しくないね」
その時だった。
空の彼方から、低い響きが届いた。
雷でも風でもない。
もっと深く、世界そのものが軋むような音だった。
ハルが立ち上がる。
「……何か、聞こえた?」
少女も耳を澄ませた。
地面の下で、微かなざわめきが広がっている。
その中に、聞き覚えのある声が混じっていた。
――戻りたい。
――また生まれたい。
――もう一度だけ……。
それは、転生の残響だった。
少女は顔をしかめた。
「まだ……残ってるんだ」
ハルが不安げに問う。
「転生? って、なに?」
少女は答えられなかった。
けれど、心の奥で確信していた。
この世界が完全に“新しい”ものになるためには、
まだ消えきれていない記憶たちを、鎮めなければならないと。
「ハル。……行こう」
「どこへ?」
「声のする方へ。
あの声を、見届けよう。
わたしたちは“記録の子”だから」
ハルは少しの間、少女を見つめ、それから頷いた。
二人は手を取り合い、光の草原を駆け出した。
風が二人の間を通り抜ける。
太陽の下で、影が重なり、長く伸びていく。
その先に――
まだ癒えぬ、古い魂たちの眠る場所が待っていた。
風が止んでいた。
静寂――
それは音のないというよりも、世界が息をひそめているような沈黙だった。
少女とハルは、光の流れる谷を見下ろしていた。
そこは地形そのものが柔らかく光を放ち、
無数の影のようなものが揺らめいている。
「……あれが、声の正体?」
ハルが小声で問う。
少女は頷いた。
「“転生の残響”だと思う」
谷の底で、影たちがささやき合っている。
「戻りたい」「やり直したい」「まだ、終われない」――
どの声も、哀しみと執着で濁っていた。
それらは生でも死でもなく、ただ“未練のかたまり”としてこの場所に縛られていた。
ハルは眉をひそめた。
「助けられないの?」
少女はしばらく沈黙した。
その光景を見つめながら、胸の奥で何かが疼いていた。
――あのとき、自分も同じ声をあげたのかもしれない。
「……助ける、ってどういうことだろう」
少女は呟いた。
「ここにいるのは“もういないはずの人たち”。
わたしたちはその記録を受け継いで生まれた。
だったら、無理に“生かす”より、“覚えてあげる”ことのほうが――」
言葉の途中で、谷の底からひときわ強い光が走った。
その光の中心に、人の形が立ち上がる。
少女は息をのんだ。
「……あの姿、どこかで……」
白い衣、淡い灰の髪。
その影はゆっくりと顔を上げ、少女たちの方を見た。
瞳に宿る光は、どこか懐かしい――
そう、まるで“彼”のように。
ハルが一歩、前に出た。
「君、知ってる人?」
少女は頷けなかった。
胸が熱く、言葉にならない。
影が唇を動かした。
声は風のように震え、谷に響いた。
「……なぜ、世界はまた生まれた?」
その問いに、少女ははっとした。
問いというより、嘆きだった。
影の声は続く。
「滅びは、終わりではなかったのか。
再生するなら、また痛みが生まれる。
なぜ繰り返す――」
少女は静かに歩き出した。
光を踏むたびに、谷底へと降りていく。
ハルが後を追う。
近づくほどに、影の輪郭が明瞭になっていく。
男の顔は、確かに“あの人”に似ていた。
けれど、その瞳の奥には絶望しかなかった。
少女は足を止め、囁くように言った。
「わたしが、生まれたのは……あなたが見届けたから」
影が揺れた。
「見届けた?」
「あなたが最後に世界を見た。
だから“見た記憶”が残って、わたしたちが生まれた。
わたしたちは転生じゃない。
あなたたちの願いの“記録”なんだよ」
男の影は、長い沈黙ののち、低く笑った。
「……願い、か。ならば、それは呪いと同じだ」
少女は首を振った。
「違う。
呪いは“忘れられない痛み”だけど、
願いは“残ってほしい想い”。
どちらも形は似てるけど、意味が違う。
わたしたちは痛みを継ぐためじゃなく、
“想いを伝えるため”に生まれた」
その言葉に、男の影が一瞬だけ揺らめいた。
谷の光が波のように広がる。
ハルが思わず目を覆う。
「……少女!」
だが、少女は光の中で微笑んでいた。
影の男が、わずかに頷いたのを見たのだ。
男の輪郭が、光と共に崩れていく。
その顔は、もう穏やかだった。
「見届けた者がいたなら、
次は……記す者がいるのだな」
「うん。あなたの記憶は、もうわたしたちが持ってる」
「ならば――ありがとう」
その言葉を最後に、影は霧のように溶けていった。
残された光の粒が谷に降り注ぎ、草木が芽吹く。
風が戻り、音が生まれる。
“転生の残響”は静かに眠りについた。
ハルが少女のもとに駆け寄り、息を整えながら言った。
「……君、泣いてるよ」
少女は笑いながら頷いた。
「うん。でも、あったかい涙」
谷の底から、透明な花が咲き始めていた。
ひとつ、ふたつ、またひとつ――
まるで“記録の花”のように。
少女はその花のひとつを手に取り、光の中にかざした。
「これが、彼らの最後の形。
もう、転生することはない。
でも、消えもしない」
ハルが小さく笑った。
「残るんだね。君の言う“記録”として」
少女は頷いた。
「そう。
記録は、命の約束。
いつか誰かが、この光を見て“ここにいた”と感じてくれるなら、
それだけでいい」
二人は谷を見渡した。
風が吹き抜け、花が一斉に揺れた。
その揺れがまるで言葉のように聞こえる。
――ありがとう。
――さよなら。
――忘れないで。
少女は目を閉じた。
涙の跡が、頬を伝って光る。
「ねえ、ハル。わたしたち、これからどうする?」
ハルは空を見上げて答えた。
「……歩こう。
この世界がどこまで続くのか、見てみたい」
少女は微笑み、手を差し出した。
「じゃあ、記録をつづけよう。
この世界の“はじまり”を、全部見届けるために」
ハルがその手を握る。
二人はゆっくりと谷を登りはじめた。
背後では、光の花が風に散っていく。
ひとひらが少女の髪に触れ、淡く溶けた。
それは、穏やかな別れのしるしだった。
彼女は空を見上げた。
青が深く、太陽はまぶしく、世界はまだ若かった。
そして胸の奥で、小さな声が響いた。
――見届けてくれて、ありがとう。
少女は微笑み、心の中でそっと答えた。
「これが、わたしたちの“転生”なんだね」
風がふたりの背を押し、草原を渡っていく。
世界は静かに、しかし確かに、新しい息吹を刻みはじめていた。
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