第4話 光の種子

 ――風が吹いていた。


 柔らかな風だった。

 どこから来たのかもわからない。

 けれど、それは確かに“生きている風”だった。


 少女は目を開けた。

 光の中に、自分がいることに気づく。

 身体はまだ小さく、手足の形も曖昧だ。

 それでも、彼女は確かに「ここにいる」と感じた。


 大地は淡く白く、温かい。

 草のようなものが波打ち、遠くで水がきらめいていた。

 空は灰ではなく、青かった。

 初めて見る色――

 それは、まるで夢の中の記憶のように懐かしかった。


 少女は声を出そうとしたが、言葉がまだ生まれなかった。

 ただ、胸の奥で誰かの声が響いた。


 ――見届けてやる。生まれて、消えていく命の輪を。


 その声は、優しく、少しだけ哀しかった。

 少女は胸に手を当てた。

 そこに、微かに光が宿っている。

 掌の奥で、鼓動が生まれているのを感じた。


 「……これが、いのち?」


 言葉にならない言葉が、唇からこぼれた。

 世界が応えるように、光が彼女の周りに集まった。

 小さな草花が芽吹き、土が香りを放つ。


 ――生命が、再び始まっている。


 彼女は立ち上がった。

 まだ覚束ない足取り。

 けれど、歩くという行為そのものが奇跡のように感じられた。


 歩くたびに、世界が少しずつ形を持つ。

 地面に色が宿り、風に音が生まれ、空の果てに光が線を描く。

 まるで、彼女の“視る力”によって世界が再構成されていくようだった。


 「……ひとり?」


 少女は辺りを見回した。

 答える者はいない。

 けれど、耳を澄ませると、地の底から“ざわめき”のような音が聴こえる。

 水が流れる音、草が揺れる音、遠くで何かが羽ばたく音。


 ――世界は、呼吸している。


 その瞬間、少女は泣いた。

 涙の理由は分からない。

 けれど、それが嬉しい涙であることだけは、確かに分かった。


 その涙が大地に落ちる。

 落ちた場所から、光が立ち上がった。

 それは一本の木となり、瞬く間に枝を伸ばし、葉を茂らせた。

 白い幹に、透明な葉。

 その枝の先で、小さな花が咲いた。


 少女はその花に触れた。

 花は揺れ、音を立てて囁くように言った。


 「――おかえり」


 その言葉に、少女は微笑んだ。

 心の奥で、誰かの笑顔がよみがえった。


 記憶ではない。

 けれど、“温度”を知っていた。


 彼女は花の木の下に座り、空を見上げた。

 空の青は、少しずつ濃くなっていく。

 白い光の粒が風に乗って漂い、やがて消えていく。


 ――そのひとつひとつが、かつての魂の残響だった。


 誰も彼もが、もう「転生」ではなく「還る」だけになった。

 戻る場所は天ではなく、大地の中。

 生と死の境界は、もう存在しない。


 少女はその景色をただ見つめていた。

 何も知らないはずなのに、心は穏やかだった。

 ――まるで、この世界の最初の住人でありながら、

 すべての終わりを見届けた者のように。


 ふと、風が頬を撫でた。

 その中に、微かに声が混じった。


 「ありがとう」


 少女は振り返った。

 けれど誰もいない。

 ただ、光の中で一本の木が揺れている。

 枝の上の花が、風にほどけて空へと舞い上がっていく。


 ――それが、彼だった。


 少女は目を閉じ、そっと囁いた。

 「また、ね」


 風が答える。

 草が揺れ、水が流れ、世界が呼吸を続けていた。


 そして、その中心に芽吹いた花が、

 ゆっくりと新しい種を落とした。


 それが――光の種子。


 大地に落ちたその種は、ほんのりと温かかった。

 そして、誰にも知られぬまま、静かに眠りについた。


 それは、

 次の生命が生まれる“合図”だった。



 夜が来た。

 世界で初めての夜だった。


 少女は花の木の根元に座っていた。

 空は深い紺色に染まり、無数の光が瞬いている。

 それが星だと、誰かが教えてくれた気がした。

 でも“誰か”が誰なのか、思い出せない。


 彼女は掌の中に残った小さな種を見つめた。

 昼間、花が落としていったもの。

 冷たくも温かくもないその粒を、少女は胸の前で包んだ。


 「……ひとりじゃないよね」


 そう呟くと、風が少しだけ強く吹いた。

 風の中で、草がざわめく。

 ざわざわ、ざわざわ――

 その音が、まるで答えるように聞こえた。


 少女は目を閉じた。

 耳を澄ます。

 大地の底から、柔らかな脈動のような音が響いている。

 それは世界の鼓動。

 自分の心臓と同じリズムで、ゆっくりと刻まれていた。


 ――その夜、少女は夢を見た。


 夢の中で、彼女は見知らぬ街を歩いていた。

 高い塔。黒い石畳。

 人々が行き交い、声を交わしている。

 誰もが笑い、泣き、そして消えていった。

 すべてが壊れ、すべてが灰になる。


 その灰の中で、一人の男が立っていた。

 白い外套を風になびかせ、静かに空を見上げている。

 顔は見えない。

 けれど、少女は知っていた。


 ――あのひとだ。


 男は振り向かず、ただ小さく呟いた。

 「君が、見届けてくれ」


 その声が、風のように消える。

 少女が手を伸ばすより早く、世界は光に包まれた。


 彼女は目を覚ました。

 夜明けが来ていた。


 空は淡い橙色に染まり、草露が光っている。

 木の花は夜の間に散り、代わりに枝の先に小さな実がついていた。

 彼女が包んでいた種が、手の中で温かく震える。


 「……行こう」


 少女は立ち上がり、歩き出した。

 彼女が歩くたびに、足跡の中から緑が芽吹く。

 それは彼女の歩みが、世界の“記録”になっていく証だった。


 森を抜け、丘を越え、やがて彼女は小さな水辺にたどり着いた。

 湖のように広く、底が見えるほど澄んだ水。

 その表面に、自分の顔が映った。


 見慣れぬ顔だった。

 けれど、瞳の奥に見覚えのある光があった。

 ――あの人と、同じ色。


 少女は微笑んだ。

 手の中の種を水面にそっと落とす。

 ぽちゃん、と音がして、波紋が広がった。


 水の底で、種が光を放つ。

 やがて泡が立ちのぼり、透明な影が水面に浮かび上がった。

 それは人の形をしていた。

 けれど、輪郭が淡く揺れていて、風に溶けてしまいそうだった。


 「……あなたは?」


 少女が問うと、影は微笑んだ。

 声はなかった。

 けれど、心の中に言葉が流れ込んできた。


 ――わたしたちは、記録。


 ――この世界の記憶が、形を取ったもの。


 少女は頷いた。

 影の中に、子どもの姿、老人の姿、鳥や獣の形をしたものもあった。

 彼らは静かに水面から現れ、草原を歩き、そして消えていく。

 消えた後には、小さな花や樹木が芽吹いていた。


 「みんな、帰ってきたんだね……」


 少女はそう呟き、胸に手を当てた。

 彼女の中にも、微かに同じ光が灯っている。

 “転生”ではない。

 けれど、確かに“受け継がれている”もの。


 それが、命の記録。


 夕暮れが訪れるころ、少女は丘の上に辿り着いた。

 遠くまで広がる新しい世界が見える。

 森が育ち、風が走り、どこかで小さな声がした。


 それは、人の言葉だった。


 少女は息をのんだ。

 音のする方へ駆け出す。

 丘を下り、木々の間を抜けると、そこに――いた。


 自分と同じ姿をした少年。

 いや、少し違う。

 彼の目は深い灰色で、髪に光の欠片のようなものが混ざっていた。

 彼もまた、花の木のもとで目を覚ましたばかりのようだった。


 「……きみも、生まれたの?」


 少女が尋ねると、少年はゆっくりと頷いた。

 そして、空を見上げて言った。


 「空が、きれいだね」


 たったそれだけの言葉に、少女は涙が出そうになった。

 彼女は笑いながら頷いた。


 「うん、すごく」


 二人は並んで空を見上げた。

 風が頬を撫でる。

 遠くの地平線に、光の筋が走る。

 それはまるで、新しい時代の夜明けを告げる合図のようだった。


 少女は胸に残る温もりに触れ、そっと呟いた。


 ――見てる? この世界を。


 その声は風に乗り、遠くまで届いた。

 誰も知らない“記録”の奥で、確かに何かが微笑んだ。


 そして世界は、再び始まりの光に包まれた。

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