第3話 眠りの果て
――音が、なかった。
世界はもう、鼓動していない。
空も地も、まだ形を持たない。
リオンはその“間”に漂っていた。
呼吸も鼓動も失いながら、それでも「自分である」という微かな輪郭だけが残っていた。
闇でも光でもない場所。
静寂が水のように身体を満たし、記憶が溶けていく。
言葉も、名も、時間の流れもない。
――けれど、ひとつだけあった。
声。
それは、遠くで誰かが笑うような、風の音に似ていた。
《……リオン》
名前を呼ばれた瞬間、
意識の底に“輪郭”が戻ってきた。
光が差し込み、音が生まれる。
自分という存在が、再び「世界」と関わり始める。
「……アイナ?」
返事はなかった。
ただ、粒子のような光が漂い、どこかで微笑む気配だけがあった。
リオンはその光を追う。
歩くという感覚が戻る。
足元に大地が形を取り始め、灰白の砂が広がった。
空は薄墨のような色をしていて、境界が曖昧だった。
「……ここは、どこだ」
彼の声が、砂の海に吸い込まれる。
見渡す限りの廃墟。
崩れた都市の残骸が、静止したまま時間を忘れていた。
塔の骨組み、折れた橋、宙に浮く残光。
それらすべてが“世界の残像”のように漂っている。
リオンは胸に手を当てた。
鼓動は、ない。
けれど、意識は確かにそこにあった。
「俺は……まだ、死ねないのか」
その言葉に応じるように、
地面が淡く光り、足元から模様が広がる。
それは魔導陣でもあり、回路でもあり、神経網のようにも見えた。
“観測者コード再起動”
――視界の端に、淡い文字列が浮かぶ。
「観測者……?」
記憶の奥に響く、あの研究所の声。
――『もし、システムが崩壊しても、ひとつの意識は残るように設計しておきましょう』
――『それが“観測者”です。死の先でも、世界を見届けるための存在』
思い出した。
自分が創った輪廻システムの最終防壁。
全ての魂が消えても、最後に残る“意識”。
それが――自分だった。
「俺は、観測者……世界の終わりを見届けるための残響」
呟いた瞬間、胸の奥に冷たい理解が走る。
死ねない。
輪廻の鎖を断ち切ったのに、なお存在を続ける矛盾。
「……皮肉だな」
世界を止めたはずが、自分だけが残った。
まるで罰のように。
その時、空の向こうで何かが動いた。
光の粒が集まり、人の形を成していく。
薄衣のような光の中、女性の輪郭が立ち現れた。
「――リオン」
その声。
振り返らずとも分かる。
アイナだった。
けれど、もう彼女ではなかった。
彼女の姿はノイズのように揺れ、時折、複数の表情が重なって見える。
笑顔、涙、怒り、祈り。
それは“アイナの記憶”を通じて構築された、多数の魂の反響だった。
「あなたが壊した輪廻炉……その中にあった意識データが、いまここで再統合されている」
「魂が、帰ってきた……?」
「ええ。でも、それはもう“個人”じゃない。
私たちは、ひとつの意識群――世界そのものの記憶になったの」
リオンは息を呑んだ。
アイナ――いや、“集合意識”は、優しく微笑んだ。
「あなたの選んだ“終わり”は、私たちを救ったの。
でも、終わりは始まりでもある。
リオン、あなたが見るべき“次の世界”がある」
「次の……世界?」
光が弾けた。
地面が割れ、無数の魂の粒が空へ昇っていく。
それは星々の誕生にも似ていた。
夜の代わりに、無数の命が空を満たしていく。
リオンは立ち尽くしたまま、見上げた。
彼の指先にも、光が宿っている。
それはまるで、“次の転生”への招待状のようだった。
「……また、始めるのか」
「ええ。
でも今度は、誰も強制されない。
望んで生まれたい者だけが、光を選べる世界に」
リオンは微笑んだ。
初めて、心の底から穏やかな笑みを浮かべた気がした。
「……それなら、見届けてやる。
もう創ることはしない。
ただ、見ていたいんだ。生まれて、消えていく“命”の自然な輪を」
アイナの光が、風に溶けた。
「それが観測者の役目。
そして、あなた自身の――赦し」
リオンは瞼を閉じた。
光が遠ざかる。
その中心に、あの図書館の扉が見えた。
前世の記憶。
彼がかつて眠りの中で設計した、“知の箱庭”。
扉が、静かに開いた。
――次に目覚める時、そこはもう“転生世界”ではない。
それは、「死を受け入れた世界」の始まり。
光が去ったあと、世界は再び沈黙に包まれた。
だが、それはもう死の静寂ではなかった。
かすかな“息づき”が、どこかから聴こえていた。
リオンは砂の上に座り、遠くを見つめていた。
空はまだ色を取り戻さない。
だが地平線のあたりで、灰の層がうっすらと赤みを帯びている。
夜明けに似ていた。
――世界が、再び呼吸を始めている。
リオンは微笑んだ。
その時、砂の中から、何かが“芽吹く”ような音がした。
音の方を見ると、掌ほどの光の塊が脈打っていた。
それは柔らかく鼓動し、まるで心臓のように淡い光を放っている。
「……君は、なんだ?」
問いかけると、光の中に輪郭が現れた。
それは、人の形でも、獣の形でもない。
ただ、記憶の断片――言葉の粒が浮かんでいる。
『観測ログ No.∞ 世界残響データ構築中』
その文字列を見て、リオンは理解した。
「……俺が残した“記憶データ”か」
輪廻炉が崩壊する前、観測者コードは自動的にバックアップを始めた。
それは意識ではなく、世界を記録するための“無意識”。
死と再生の狭間に残された、最後の意志のかけら。
リオンは光に手を伸ばした。
触れた瞬間、脳裏に無数の映像が流れ込む。
人々の笑い声、泣き声、怒号、祈り。
そして――あの少女の声。
『リオン、もう怖くないよ』
アイナ。
彼女の残響が、光の奥から優しく響いた。
リオンは目を閉じ、掌の中でその光を抱く。
「……ありがとう」
かつて自分が作り、失い、滅ぼしたもの。
そして、それでもなお残った“願い”の形。
光は、まるで応えるように震えた。
そして、言葉にならない声を返す。
――まだ、記録は続いている。
リオンは空を見上げた。
そこに、ひとつの“流れ”が生まれていた。
魂の粒たちが、風に乗って軌跡を描きながら昇っていく。
まるで天に帰る星々のようだった。
「行け。
もう、誰もこの世界に縛られなくていい」
リオンがそう呟くと、光の塊もゆっくりと浮かび上がった。
その瞬間、風が吹いた。
風は、優しい。
どこか懐かしい匂いがする――花の香り。
砂の中に、小さな芽が生えていた。
それは、一本の草花。
この終わりの世界で、初めて芽吹いた生命。
「……命は、また始まるんだな」
リオンは膝を折り、その小さな芽に手を添えた。
その指先にも、微かな熱が宿っていた。
“生命の熱”――もう二度と感じられないと思っていた感触。
彼は目を細め、そっと呟く。
「俺も、少し眠ろう」
観測者としての機能を停止させる手順は、頭の中に刻まれていた。
意識を緩め、データを閉じ、記憶の回路を静かに凍らせる。
けれど、その最後の瞬間、彼は思った。
――この芽は、誰かに見守られなければ育たない。
――誰かが、「生きたい」と思わなければ、世界はまた静まってしまう。
リオンは微笑んだ。
「なら、もう少しだけ……見届けよう」
眠りではなく、まどろみのような意識。
風の音、砂のざらめき、芽の成長するかすかな響き。
それらが混ざり合い、穏やかに流れる。
やがて、遠くで水の音がした。
乾いた大地のどこかで、何かが流れ始めたのだ。
音は次第に大きくなり、空に反響する。
それは――世界の再起動音。
リオンは目を閉じたまま、静かに笑う。
「やっと……“生”が、世界に戻ってきた」
空の彼方に、誰かの声が聴こえた。
それは、かつての仲間か、アイナの残響か。
もしくは、まだ見ぬ新しい生命の呼び声かもしれない。
《――観測を続行しますか?》
脳裏に、淡いシステムの声が響く。
リオンは、微かに頷いた。
「……ああ。もう少しだけ」
その瞬間、彼の身体は光の粒となって風に溶けた。
世界に散らばるように、やわらかく融けていく。
砂の芽に、その光が触れた。
芽が、ひときわ強く輝いた。
風が吹く。
灰の大地に、色が戻っていく。
――死の果てに生まれる世界。
――誰にも支配されない輪廻の外側。
それが、リオンが最後に見た光景だった。
そして、世界が静かに言葉を紡いだ。
「おかえり」
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