6
リョウはトワの語る話を、口も挟まずに聞いた。彼の口から溢れた地獄が、自分の目の前に現れるような気がして、それは今まで自分が経験してきた飢えや暴力に支配される地獄とは、また異なるもののように感じた。
トワの背に傷があることをリョウは知っている。浴場でひと目見た時、あれは刃物による傷痕だと悟った。右上から斜め下へ背中を両断する白い傷は、恐らく生涯消えないだろう。
薄い手のひらを開き、トワは右手の火傷の痕を左手の指で撫でる。夢で見た過去を忘れないように、身体に刻みつけているようだった。
「僕は、ユキを助けられなかった」
囁き、やるせなさを押し込めるように、胸元の毛布をぎゅっと握りしめる。
「僕が殺されれば、代わりにユキが逃げられたかもしれなかったのに」
そんなの今更どうしようもないという言葉を、リョウは返せない。彼が自分と違うとはいえ、ある種の地獄をくぐってきた少年であれば、苦しみの程度もいくらかは知れる。過去に消えていった仲間の命と名前を思い出し、リョウはもぞもぞと椅子の上にあぐらをかいた。
「僕だけ、一人だけ、生き延びちゃった……」
「死ぬよりましじゃねえか」
視線を向けると、トワの疲れた目と目が合った。過去を振り返ったからだろうか、いつもの死人のような目とは違い、後悔や罪悪感といったマイナスの感情が満ちた生き物の瞳だった。
「生きてりゃ自由だ。可能性はある。だけど死んじまったら何もできないし面白くない。命があるだけ儲けもんってことだ」
そう思うからこそ、仲間が命を失ったときも、リョウは地獄を生き延びてきた。人間はそう遠くないうちに必ず死ぬ。だからこそ、いま呼吸が続くことは、捨てるべきでない幸運なのだ。
「せっかく生き延びたんなら、楽しまねえともったいないぜ」
「……だから、僕は許せなかったんだと思う。本当は、生き残りじゃなくて死に損ないだと分かってたから。今も家族といたいと思ってるのに、実行する勇気もないんだから。どうしようもなくて、悔しくって、死に損ないだって認めるのが辛かった」
ごめんなさいとトワは再び繰り返した。
「深い意味がなかったのは分かってる。だけど、あの瞬間、あたまが真っ白になって、気が付いたら殴ってた。僕が一番許せないのは僕なのに、きみを殴ってしまった」
回した腕で自分の膝をぎゅっと抱え、トワは濡れた瞳でリョウを見つめる。流れないから涙ではないのか、しかしランプの仄かな明かりの中、トワの黒い瞳は潤んでいた。彼が自分のせいで新たな後悔に苦しんでいることを、リョウはその瞳を見て理解した。
「……おまえみたいなやつ、初めて見た」
まだ多くは理解できないし、時間をかけても難しいかもしれない。家族がいたことで、トワは自分も仲間も持ち得ない心情に苦しみ苛まれている。自分の知らないその心の情景を、リョウは知ってみたいと思った。
翌日、未だに顔を腫らしているリョウとトワが会話をする姿に、周囲は驚きを隠せなかった。全く喋らなかったトワが言葉を発し、あれほど彼を毛嫌いしていたリョウが、罵倒ではない声を掛けている。興味津々で、一体なにがあったのかと問いかける仲間に、リョウは大したことじゃないと返事をした。「こいつも、けっこう同類だって気付いたんだよ」
多くの少年たちは、これまで学んでこなかった教養を座学で受ける。読み書きから始まるそれに、興味を示す者は少なくなかった。彼らは知識がどれほど強い武器になるかを身をもって知っている。
眉間にしわを寄せて手元の教科書を眺めるリョウが尋ねると、トワは単語の読み方を教えた。彼は貧しいながらいくらかの教育を両親から受けていた。長机に並ぶリョウとトワを、物珍しげに少年たちが取り囲み、あれこれと授業の質問を投げかける。トワは言葉少なに、その質問のほとんどに答えられた。少年によって嫉妬と感嘆の反応は異なったが、正面切って罵声を浴びせる者はいなかった。
「なあ、これっていくつになる?」
前の席から身を乗り出し、ロクが手持ちの教科書を指さす。後ろで束ねた茶色い髪が雀の尻尾のように見える、トワより一つ年上の少年だった。リョウとの付き合いは古く、その右の耳たぶが抉れているのも共に敵と闘った時の名残だ。垂れ目ぎみの穏やかそうなロクだが、意外にも仲間内では一、二を争うほど喧嘩っ早い。
足し算の式を見たトワが答える前に、「二十三」という声が上から降ってきた。
「ロク、暗算もできないの?」
くすくすと笑うのは、ショートヘアがよく似合う少女だった。黒髪はつやつやと輝き、ぱっちりとした瞳に、笑顔が愛らしい。ミノリという彼女はリョウと同じ年齢だが、周囲の少年少女よりいくぶん大人っぽい立ち居振る舞いを見せた。リョウやロクよりも長い間ここで暮らしている。
「いや、頑張れば出来るって、こんぐらい」
「じゃあやってみてよ。こっちは?」
ミノリが指さした計算問題に、ロクは露骨に顔をしかめる。だが指を使うのはみっともないと思ったのか、必死で頭を働かせているのが傍目に見てもよく分かった。あまりに真剣な表情にリョウは笑いをこらえるのに必死になる。
「じゅう、ご……」
「正解。なんでそんなに不安そうなの」
「そんなことねえよ」
「本当に?」
顔を覗き込もうと身体を倒すミノリに、ロクは慌てて視線を逸らす。彼女の髪がさらさらと流れ、自分たちより遥かに高度な教材を抱いているのが見えた。
「やめてやれよ、こいつ馬鹿なんだから」
「はあ、誰が馬鹿なんだよ!」
「そうだね。馬鹿な子ほど可愛いって言うけどね」
「ミノリも馬鹿にしやがって」
リョウに食って掛かろうとするロクは、ミノリの言葉に彼女へ身体を向けた。だがそこに覇気はなく、彼女がひらひらと手を振って去ってしまえば、残念そうな横顔さえ見せる。
「こいつ、ミノリが好きなんだ」
きょとんとして自分たちのやりとりを眺めていたトワに、リョウは耳打ちして教えてやった。
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