二井川かなえ

ハナビシトモエ

私と幸せな恋人

 僕の中で二井川かなえという人間はそれだけで終わり始まる。


 二井川さんは僕みたいに笑うのが怖かった中学生にも笑顔で話しかけてくれる吹奏楽部の同級生だった。僕は人間が怖い女の子だった。

 吹奏楽部に入ったのは音楽が好きだったというわけではなくて、同じクラスになった二井川さんに頼まれて入部した。



「Aちゃんも一緒に入ろう」

 そう言われて二井川さんと音楽をしたい男子たちと同じくくりで楽器を始めた。僕はコンクールとか、楽器の上手さに興味がなかった。二井川さんのマウスピースをくわえる唇の質感、高い物を取ろうとして反る存在感のある胸、笑顔で体に触れてくれる少し大きくて柔らかい手。もう少し近づいたらキスが出来るのにその境界を越えるのが怖かった。


 二井川さんは男子から人気があり、そのうち男の子と交際しているという噂も立った。二井川さんは「男の子って何がそんなにいいか分からない」と仲のいい人たちに言っていた。



「Aちゃんは変な男の子と付き合わないでね。私、ひどい男の子から守ってあげるね」

 そう言われて少し期待をしてしまう僕の胸の中。



 ある時、音楽室で眠っている二井川さんを見かけた。遠目で見るくらいなら、すのこに上がるくらいなら、入り口でのぞくくらいなら、言い訳をたくさんして、僕は音楽室の二井川さんの隣の席に座った。



「僕の物になれ」

 そうつぶやくと二井川さんは笑顔でうなずいたように感じた。

 その瞬間に決まった。僕は二井川さんを悪い男から守ってやる。



 かなえさんは中学の西窓から見える赤い屋根のマンションの五階に住んでいる。小学校区は速水瀬小学校。小学校の頃は引っ込み思案で仲のいい女の子はクラスの成績が真ん中の人。

 家族構成は四十三歳でW商事で部長職の二井川岩志と建築の仕事をしている四十歳の二井川桜子と二歳下の妹小絵ちゃん。好きな科目は数学で趣味は吹奏楽ではなくて、プロ野球観戦。お気に入りの選手は鳥谷敬内野手。

 好きな男の子のタイプはちょっと頼りないけど、ピンチの時は助けてくれる王子様タイプ。甘え上手で中学の愚民は自分こそと思いあがっている。女の子には名前にちゃん付け、成績は良く言わずとも分かるけど優しいかなえさんは人気者。僕はたまに触れてくれるだけでもどうにかなってしまいそうになる。

 マンションの五階からは新島城がよく見える。角部屋なのでベランダが大きい印象だ。朝、六時に起きて予習、七時に朝ごはんでパン食の小絵ちゃんと違って白米主義者、八時半に一年五組の真ん中の席に座って本を読む。垂れてくる髪の毛を三回払って、クラスメイトと会話。



 色々かなえさんの事を考えたのにこんな少ししか分からなかった。



 かなえさんは今日も挨拶をしてくれた。これは僕のことをきっと好きな証拠だ。そんなんじゃなかったらまさか僕に話しかけるなんてことをしないに決まっている。


 一年の頃はそういう楽しくて可愛いかなえさんを目と脳に収めて、かなえさんだけを頭に入れた。


 二年になって後輩に優しいかなえさんは可愛い。

 お父さんは商社の部長職を今も勤めているけどお父さんが首になったらかなえさんはどう変わるだろう。悲しい顔も見てみたい。お父さんは厳しそうだから、お母さんを首にさせようかな。こんなこと考えちゃダメなのに、いっぱいかなえさんを見たい。小絵ちゃんは中学を池の浦学園の中等部にするらしい。最初はお父さんも反対していたが、かなえさんが賛成して話はまとまった。しっかり者のかなえさんも女子校に行って欲しかったな。有象無象の男が着かなくて済んだのにな。

 


 僕はかなえさんの電話番号をまだ聞けない。

 もし聞けたらもっとお話ししてみたいのに、毎朝声を掛けてくれるなら好き進行形なので、いつでも聞けるけど、もし拒絶されたらと思うと踏み出せない。絶対に好きだと確信していたあとの裏切りの味ほど苦いものはない。


 後輩と付き合っている。

 そう聞いた時は裏切りだと確信したが、三ヶ月で別れた。それでも僕は知っている。邪魔をした男はキスをした。僕だってまだなのに、なんでキスをしたのよ。唇の質感は僕が最初に味わう予定だったのに。


 まぁ、二度くらいの火遊びなら許してあげよう。それくらいあることだろう。


 三年生になった。かなえさんは女子校に進学するという。僕もその女子校にするというと笑われた。学力はとうてい足りず、どうしても難しい。そんな僕に転機が訪れる。何かの間違いでとある吹奏楽強豪校が僕を欲しいらしい。かなえさんは僕よりも喜んでくれた。


「Aちゃん良かったね。私も行きたいな」


 その言葉は本気だと確信した。高校の監督の先生にかなえさんのことを話して、一緒にとってとお願いした。一生に一度の勝負、大きな声を出せなったけど、一生懸命に伝えると了承してくれた。


 顧問の先生からかなえさんにそのことを伝えてもらった。

 

 その次の週からかなえさんは僕に触ることは無くなった。


 吹奏楽部卒部の日、受験は終わり桜も散りかけている。

 かなえさんと同じ高校には行けなかった。僕はかなえさんの両親が勉強をさせたいという意向だと顧問の先生から聞いた。そんなの一緒の高校ですればいいのにと思ったけど、それがかなえさんの意志ならと強く出ることが出来なかった。


 かなえさんのお父さんは後輩に恵まれて、来年には役員に昇進する。お母さんは大きなプロジェクトを任せられている。小絵ちゃんは国語の成績はよくないけど、理数系は強いね。国語のテストで三十六点は少し心配だな。洗濯機の調子が悪いなら他の家電の時にすすめたようにまた電気屋さんのチラシと要点のメモを入れておかないとね。これくらい当然だよね。


 定期演奏会が終わって荷物の積み下ろしを終えたあと、僕はかなえさんに呼び出された。今までのお礼かな、もしかして交際をしてくれるのかな。僕は踊り出しそうな気持ちで人気のない音楽室へ入った。


「あのさ、私あなたに何かした?」

 したよ、僕が特別って気持ちを不器用ながら伝えてくれた。声には表せない、今言うべきだ。僕の物になろうよって。


「私、あなたが嫌い」


「なんでそんなこと言うの」

 それだけがかなえさんに言った初めての言葉だった。


「ストーカーは迷惑だから止めてくれない。家のチラシもあなたでしょう。どこから見ているの。気持ち悪い」

 見ていただけだよ。特別なことなんて何もしていないし、怖いこともしていないでしょう。


「学校も何。そんなに私に嫌がらせしたいの? あんたなんて嫌い。本当に気持ち悪い」

 告白の言葉を言われる為に音楽室に行った僕はわけも分からないうちに拒絶された。なんで、何が悪かったの。僕はどう考えても分からない。そうだ。今夜の食事の時に聞いてみよう。ちょっとイライラしていただけで家族の前では素直になれるよね。



 一年生の秋に始まった生理周期は若干の揺れはあったが、健康に来ているし、周期のノートは一年の頃からとっている。男と付き合っている時に揺れた時は焦ったけど、早めに来ることもあったし、今は心配していない。


 帰宅してマイクを聞いてみたけど、何も聞こえなかった。


 高校に入学してもかなえさんより上の女の子とは出会えなかった。無気力だった僕はその辺の男で処女を捨てて、かなえさんに対する不貞な気がしてさっさと別れた。年に一回の現役生合同演奏会でかなえさんに出会う機会はあったのに意図的に避けられている。僕はまだ聞けていない。僕は告白をしていないので、その返事を聞くまでは諦めない。


 高校を卒業しても、社会人になっても頭はかなえさんでいっぱいだ。かなえさんに触って欲しいところはいっぱいあって、誤解もたくさんあるのにかなえさんと話すことは無かった。そのうちかなえさんは合同演奏会に来ることはなく、生理周期ノートも推定でしか更新されなくなった。


 かなえさんが男と結婚を前提に交際していることを知ったのは同じ高校に進んだ幼馴染の話だった。


「ふみちゃん、結婚するらしいよ。相手はサックスの人だって、サックスの集まりで知り合ったらしいよ」


 僕はその男がどんなやつか知らない。かなえさんとかろうじて繋がっていたTwitterのアカウントにDMを送った。送る権利はあると思っているし、もちろん答えてくれるはずだ。これまでは性急にことが運びすぎた。時間で解決できることもあると伝えた。


「迷惑なんで止めてください」

 見知らぬ男からDMがきた。

「誰ですか? 何かしましたか」

 それきり返ってこず、Twitterはブロックされていた。あの変な男のせいだ。かなえさんは思慮深く、優しい人だ。そこに付け込まれたんだ。かなえさん、今助けてあげるからね。


 実家は総人橋二丁目のエレフェントンマンション503号室だよね。明日、一度実家に帰って荷物をまとめるから会えるよね。

 マンションの部屋の前で待っているよ。ちゃんと話せば誤解は解けるよね。


 男に襲われたら怖いな。

 護身用にナイフが必要かもしれない。

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