第3章:化学の牙――最初の反撃


 四階の手術室で、瞳は最初の本格的な罠を準備していた。


 時刻は午前1時40分。


【残り時間:4時間05分】


 手術室の扉を開ける。月明かりが窓から差し込み、古い手術台を照らしている。十年前、ここで何人もの命が救われた。今夜、ここで瞳の命も救われるかもしれない。


 まず、廊下にエタノールを撒く。


 薬品庫から持ち出したエタノール。容量500ml。廊下約十メートルに薄く広げる。厚さ1mm程度。引火すれば十分。


 瓶を傾け、液体を慎重に撒いていく。可燃性液体の甘い匂いが立ち込める。揮発性が高い。空気中に可燃性の蒸気が広がる。


 これで第一段階。炎の壁を作る。


 次に、手術室内部の罠。


 手術室には古いメスやハサミ、金属製の器具が残っている。錆びているが、まだ使える。鋭利さは保たれている。


 瞳は手術台の周囲に、器具を配置していく。


 メス×5。ハサミ×3。鉗子×2。


 これらを、同時に麗華に向かって飛ばす仕掛けを作る。


 手術室の隅に、古いゴムチューブを見つける。弾性がまだ残っている。これをバネ代わりにする。


 ゴムチューブを引き伸ばし、器具を固定。ワイヤーを引けば、一斉に解放される仕組み。


 手術台の下にワイヤーを這わせる。トリガーは床のタイル。踏めば引っ張られる仕組み。


 作業しながら、瞳は時間を意識する。


 準備時間:15分経過。麗華の位置は? 足音が聞こえない。どこかで探している?


 まだ時間がある。急げ。


 急げ。急げ。急げ。


 そして――発火装置。


 ライターを床に固定する。その上に、簡易的な導火線。エタノールに染み込ませた布を細く裂いたもの。


 導火線の長さ:約3メートル。燃焼速度:毎秒約5cm。点火から着火まで約60秒。


 60秒あれば、退避できる。


 瞳はメモ帳に罠の配置図を描く。完全記憶があれば不要だが、確認のためだ。


【手術室の罠】

 - 廊下:エタノール(引火性液体)

 - 導火線:3メートル(遅延信管)

 - バネ式投擲:メス5本、ハサミ3本(同時攻撃)

 - トリガー:床タイル(踏むと作動)


 目的:麗華の「一度に一つしか操れない」という制約を突く。同時攻撃で防御を突破。


 副次目的:炎による心理的圧迫。視界の妨害。


 準備を終え、瞳は手術室の奥に隠れた。器具棚の陰。視界を確保しつつ、発見されにくい位置。


 深呼吸。心拍数を落とす。


 落ち着け。落ち着け。落ち着け。


 パニックは敵。冷静さだけが武器。


 そして、廊下に小石を転がした。


 カラン、カラン……


 音が響く。静寂を破る音。麗華を誘い込むための餌。


 来い。罠に掛かれ。


 待つこと数分。瞳は時計を確認する。午前1時55分。


【残り時間:3時間50分】


 そして――足音が近づいてくる。


 タン、タン、タン……


 規則正しい足音。しかし、さきほどより――わずかに遅い?


 疲労? いや、まだ早い。単なる警戒か。それとも……。


 麗華が廊下に姿を現した。


 月明かりに照らされた姿。白いワンピースは汚れ、髪も乱れている。しかし、その目は――まだ鋭い。


 エタノールの匂いに気づいた様子はない。いや、気づいていても気にしていない。


 嗅覚は? 正常? それとも鈍い?


 MRI室で配管が落ちたとき、痛みの反応は? なかった。


 痛覚がない――その可能性が高い。


 瞳の頭をよぎる。


 ――


 炎も、切り傷も、彼女には「痛み」として感じられない。


 だが、ダメージは蓄積する。身体は正直だ。


 そうだとすれば……。


 麗華が、エタノールを撒いた廊下の中央まで来た。


 今だ。


 瞳は隠し持っていた別のライターで、導火線に火をつけた。


 チッ……


 小さな炎が生まれる。そして――


 炎が導火線を這い始める。シュルシュルと音を立てて。


 燃焼速度、計算通り。60秒後に本体着火。


 瞳はカウントダウンを始める。


 60、59、58……


 麗華は廊下を歩いている。まだこちらに気づいていない。


 45、44、43……


 導火線の炎が、廊下のエタノール溜まりに近づく。


 30、29、28……


 麗華が立ち止まる。まずい、何かに気づいたか?


 20、19、18……


 麗華の視線が床に向く。エタノールの光沢。そして――


 10、9、8……


 「これは――?」


 麗華の声。


 5、4、3、2、1――


 炎がエタノールに引火した。


 ゴォォッ!


 廊下全体が、一瞬で火の海になった。


 オレンジ色の炎が天井まで届く。熱気が手術室まで押し寄せる。空気が揺らぐ。


 温度:推定800度以上。持続時間:約2分。


 これで――


 これでさすがに――


 しかし、瞳の期待は裏切られた。


 炎の中から、


 服が燃えている。

 髪が焦げている。


 それなのに――表情一つ変えず、まるで散歩でもしているかのように、炎を突き切ってくる。


 ありえない――


「やっぱり痛覚がない……! 服が燃えているのをまったく気にしていない……!」


 瞳は愕然とした。これは想定外だ。


 仮説:痛覚欠如。先天的か、能力の副作用か。


 問題:物理的ダメージを与えても、本人が気づかない可能性。しかしそれは諸刃の剣だ。彼女が気づかないうちに致命傷を与えれば……。


 麗華が手術室に入ってくる。燃える服を、ようやく気づいたように払い落とす。


 その下では焼け爛れた皮膚がゆっくりと回復していく。驚異的な再生能力。


 視覚で気づいた。痛みではなく、視覚情報。


「火? そんなもので私を止められると思った?」


 麗華の声に、初めて明確な苛立ちが混じる。


「あなた、なかなかしぶといわね。面白いわ。でも――そろそろ飽きてきたわね」


 その言葉と共に、麗華の手が手術台を指す。


 来る――


 手術台が宙に浮いた。


 ゴゴゴ……という音。金属が軋む音。


 手術台が瞳に向かって飛んでくる。


 重量:推定150kg。速度:秒速約5m。


 瞳は横に転がった。床を這うように。


 ドガァン!


 手術台が壁に激突し、粉々になる。金属片が飛び散る。


「次は外さないわ」


 麗華の視線が、天井の照明器具に向く。


 天井の照明――重量約20kg。落下すれば致命傷。


 照明器具が揺れる。固定が外れる音。ギシギシ……


 まずい。


 瞳は手に持っていたメスを、麗華の目の前に投げた。


 シュッ!


 メスが空中を切る。麗華の視界を横切る。


 麗華の視線が一瞬、メスに向く。


 集中対象が移った――


 照明器具の揺れが止まる。


 やはり! 一度に一つしか操れない!


 瞳は確信した。そして――もう一つの仮説を試す番だ。


 これが、この罠の本当の目的。


 瞳は床に仕込んでおいたワイヤーを、足で踏んだ。


 カチッ。


 トリガー作動。


 シュパッ! シュパッ! シュパッ!


 三方向から、同時にメスが飛ぶ。バネ式投擲装置が一斉に解放される。


 北東の方角からメス2本。

 南の方角からハサミ2本。

 西の方角からメス3本。


 計7つの刃物が、同時に麗華を襲う。


 麗華の目が見開かれる。驚愕の表情。


 手を伸ばす――しかし、一つしか止められない。


 左から飛んでくるメスを、テレキネシスで停止させる。


 しかし――残りの6つは、防げない。


 ザシュッ! ザシュッ! ガシッ!


 メスとハサミが麗華の肩、脇腹、腕を切り裂く。


 血が飛び散る。赤い飛沫が、月明かりに照らされる。


「くっ……!」


 麗華が初めて、声を上げた。苦痛――ではなく、驚き。


 傷ついた。複数の傷。同時攻撃は有効。


 瞳は観察を続ける。科学者のように冷静に。


 血が流れる。肩から、脇腹から。しかし――


 数秒後。


 傷が塞がり始めた。


「くっ……あの再生能力……!」


 瞳は戦慄した。


 切り傷が、どんどん治癒していく。皮膚が再生し、血が止まり――やがて傷痕すら残らなくなった。


 これは――チート能力だ! くそ! くそくそ!


「やっと傷つけたと思ったのに? 残念だったわね」


 麗華が笑う。その笑顔には、余裕が戻っている。


「私は人間を超えた存在。テレキネシスだけじゃない。再生能力もある。あなたがどんなに足掻いても、無駄なのよ」


 瞳は後退した。器具棚に背中をぶつける。


 化学も効かない。物理攻撃してもすぐに傷は再生される。


 じゃあどうすればいい?


 ……勝てない。絶対に勝てない。


 恐怖が、瞳の思考を侵食しようとする。


 諦めろ。

 無理だ。

 逃げ切れない。


 心の奥底から絶望の叫びが聞こえる。


 しかし――


 そのとき、瞳は気づいた。


 それは重要な観察結果だった。


 麗華の呼吸が、わずかに荒い。ハァ、ハァと。


 額に、かすかな汗。月明かりに光る汗の粒。


 そして――再生した傷跡の部分を、無意識に触っている。


 待て。なにかおかしい。


 再生能力が――自動で、完璧なら、疲労はないはず。


 でも、呼吸が荒い。汗をかいている。


 ということは――


「再生には……エネルギーが必要。そしてスタミナは有限……!」


 瞳は小さく呟いた。


 エネルギー保存の法則。何かを生み出すには、何かを消費する。


 傷を治すには――カロリーを消費する。つまり体力を消費する!


 完璧に見える能力も、必ず弱点がある。


 それが突破口だ。


 このままで勝てないなら――消耗戦だ。


 相手の体力を削る。再生させ続ける。そして回復の余裕を与えない。


 絶対に――夜明けまで逃げ切る!


 瞳の目に、再び光が戻る。


 諦めない。まだ終わらない。


 瞳は手術室を飛び出した。麗華が追ってくる。


「逃がさない!」


 麗華の声。苛立ちが増している。


 いい傾向だわ。感情的になれば、ミスをする。


 廊下を走る。だが今度は、ただ逃げるだけじゃない。


 


 相手を走らせる。階段を上下させる。とにかく体力を削る。


 回復させる暇を与えない。


 時刻は午前2時10分。


【残り時間:3時間35分】


 瞳はメモ帳に素早く書き込む。


【実験結果】

 - 痛覚:なし(確定)

 - 再生能力:あり(傷が1分で完治)

 - 再生コスト:体力消耗(呼吸の乱れ、発汗)

 - 結論:持久戦で優位に立てる可能性あり


【次の戦術:消耗戦】

 - 病院内を移動し続ける

 - 小規模な罠で継続的にダメージ

 - 再生を繰り返させる

 - スタミナを削る


 持久戦の始まりだ。


 瞳は五階へ向かう階段を駆け上がった。


 麗華の足音が、背後から追ってくる。


 追いかけてこい。走らせてやる。


 陸上部で鍛えた持久力――今こそ発揮する時だ。



 陸上部の練習中の光景がフラッシュバックする。


 「白河、もう一本いける?」


 顧問の声。


 瞳は息を切らしながら頷いた。


 「はい……いけます……」


 長距離走。10km。タイム:42分。


 「お前、才能あるな。インターハイ、狙えるぞ」


 才能――。


 完全記憶能力のおかげで、フォームを完璧に再現できる。理想的な走りを一度見れば、身体がそれを覚える。


 でも、それだけじゃない。


 幼少期の入院で培った、精神力。


 痛みに耐える力。孤独に耐える力。


 それが、今の私を作った。


 「白河、何があっても諦めるな。長距離は、体力だけじゃない。メンタルが重要だ」


 顧問の言葉が、今も耳に残る。



「――っ!」


 意識が現在に戻る。


 五階の廊下。瞳は立ち止まり、振り返る。


 麗華が階段を上ってくる。その姿が見える。


 来い。まだまだこれからだ。


 瞳は走り出した。


 長い夜は、まだ半分も過ぎていない。


【残り時間:3時間30分】


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