第20話「デュラハン」
暗闇の林の中。
ずるずると何かを引きずる音が聞こえた。
音の正体は地面に届くほどの長い瞼を持つ、スラブ世界の悪霊の君臨者ヴィイ。
とはいえ今の彼の姿は、悪霊の君臨者としての威厳は欠片もなかった。
長い瞼からは血が滴り落ちており、眼球があるべき場所には何もなく、暗闇の空洞が広がっている。
ヴィイの損傷は眼球だけではなく、身体中に鳥類に啄まれた跡があり、このまま灰となり崩れ落ちそうな姿だった。
「ぐおっ」
ヴィイは足を縺れさせ、倒れ伏す。
地面に衝突した衝撃で片腕が崩れ、灰と化した。
逆腕で立ち上がろうとするが力が足りず、再び地に伏してしまう。
その衝撃で残っていた逆腕までも崩れてしまった。
顔中に脂汗を浮かべ、今にも消え入りそうな息遣い。
それでもヴィイは芋虫のように身体を這わせて前に進んだ。
「はぁ、はぁ……!
心のどこかで思うてしもうた……!
奴の経歴を警戒するあまり、奴こそが「強く正しい」勇者であると……!
あの程度の雑魚に、この儂が恐れを抱かされてしもうた……!」
本来の実力差を考えれば、ヴィイが圧勝して当然の戦いだった。
鏡を構えられようが、目を瞑られようが、そんなものは関係なく殺し切れていた。
なにしろヴィイの持つ邪視は、数多ある邪視の中でも最高位の代物なのだから。
しかしヴィイは、心のどこかで恐れていた。
荒木のこれまで成し遂げた、数々の悪魔祓いの実績を。
その恐れから、ヴィイは邪視の制御を誤ってしまった。
「くそう、許せぬエクソシスト……!
じゃが、真に許せぬのはマスティマじゃ……!
貴様だけは許せぬ……!
横槍を入れて襲いかかるのみならず、儂の配下まで奪うとは……!」
ヴィイの脳裏に浮かぶのは、先ほどの戦い。
エクソシストに敗れるだけでも許しがたいというのに、マスティマには漁夫の利を取られてしまった。
ヴィイは怒りのあまり憤死してしまいそうな形相だが、それでも止まることはなく這い続ける。
彼にはまだ力尽きる前に、成すべき目標があったからだ。
「この傷では、そう長くは地上に残れん……!
復活しようにも、どれほど地底での休息を必要とするか……じゃが、トドメを刺し損なったことを後悔させてやる……!」
そうして這い続け、辿り着いた先にあったのは小さな洞窟。
その奥には魔法陣が画かれていた。
そして魔法陣の中心には、男の死体が一つ。
「__切り札を切る。
これまで殺し尽くした害虫共の魂、この者の魂と肉体。
そして儂に残る全ての魔力を捧げる__来い」
その言葉と同時に、ヴィイは煙のように消えてゆき、洞窟の中から悍ましい嘶きが鳴り響いた。
==
「これで聖水も補充できて、備えは万全ですね」
「ああ……しかし随分暗くなっちまった。
悪いな柊、色々とこっちの予定が立て込んじまって」
「いえいえ」
学校終わりの放課後、俺達は聖水を補充すべく教会に向かった。
度重なる悪魔事件を経て聖水を消耗していたため、本日発注品が届いたと戸塚神父から連絡がきたので取りに行った流れだ。
柊の言う通り、これでまた悪魔事件に巻き込まれても、万全の体制で迎え撃てるだろう。
……まあ、悪魔事件なんて起きないに越したことはないんだが。
「あれって……」
「っ」
__言った傍からかよ。
夜道の街灯に照らされた道路から足が伸びている。
その足は赤黒い血によって隈なく染められていた。
ぴちゃぴちゃと音を立てて地面を汚し、鉄臭い匂いを巻き散らしている。
そいつは街灯の下へと歩みを進め、段々とこちらに近づいてくる。
「柊! 水鉄砲だ! 構えろ!」
「は、はい!」
大きさはよくいる小悪魔程度だが、全身血塗れの異様な姿であり、一目見てもわかるほど不気味な邪気を発していた。
人間に生まれながらに備わる本能的な忌避感に訴えかけるような。
「これ以上近づくな! 中には聖水が入っている! 近づけばお前を撃つ!」
「__」
「武器がこれだけだと思うなよ……! 悪魔を祓う手段なら他にもある!
余計な動きを見せれば速攻で消し去ってやる!」
「__」
「いいか!? 聞かれたことだけに答えるんだ!
何の目的で俺たちに近づいてきた? 言え!」
「__」
返事はない。
……対応を間違えたか?
急な邂逅に焦って高圧的な態度を取ったが、もし高位の悪魔が相手だとしたら……。
今更考えたところでどうしようもない……ひとまずこの方針で突き進むしかねえ。
「お前が何も言わないっていうなら__」
「先輩待ってください」
「な、なんだ柊」
「この子、悪魔じゃないかもです」
「はぁ……?」
悪魔じゃない?
これほどおぞましい気配を放っている輩が……?
俺は目の前の化け物を凝視する。
すると違和感に気づいた。
表情だ。
そいつの表情は、怯えによって彩られていた。
まるでそれは知らない年上の男に怒鳴られて委縮する、どこにでもいる子供のような__
「ひっ」
しまいには怯えて後ずさりし、小石に足を取られて尻もちをつく。
その姿を見て俺は一気に毒気が抜かれた。
そして疑問が芽生えた。
何故この子は、このように血まみれの姿でいるのかと。
「ぁ、っ……う、ううう……うっ……ぅううううう!」
「……先輩、一旦矛を収めてくれませんか?
私はこの子から事情を伺うべきだと思います」
「……そうだな」
俺と柊は泣く子供をなだめた後、教会に出戻り話を伺うことにした。
==
教会に戸塚神父はいなかった。
俺達に聖水を渡した後、早々に自宅へ帰ったのだろう。
以前貰った合鍵で教会に入り、シャワーを借りて子供は血を洗い流すことに。
そうして子供が体を洗っている間に、柊は子供用の替えの着替えを取りに行き、俺は戸塚神父に連絡を送った。
といっても、戸塚神父からの反応はなかったので、メールで事情を書き記して伝える程度で留めたが。
子供は全身を洗い終わり、柊も教会に戻ってきて替えの服も用意できたので、そうして人心地ついた俺達は件の子供から話を伺うことにした。
「……なあ柊、どうしたんだその子の恰好」
「可愛いでしょう? 一目惚れして買ったんですけど、私のサイズだと合わなくて。
せめて観賞用にと家に飾っていたのですが、こうして使う機会が巡ってきてよかったです」
「ふーん……」
血まみれだった子供は、どうやら女の子だったらしい。
彼女は現在、あの前衛的な血塗れファッションから、えらく綺麗な恰好に様変わりしていた。
フリルやレースがふんだんにあしらわれた黒いドレスを着ており、血塗れだった時は気づかなかったが、意外にも可愛らしく整った顔立ちをしているようで、肌の白さや線の細さ、どことなく幸の薄い雰囲気も相俟って、そのダークでファンシーな服装がよく似合っていた。
彼女は柊の膝の上に座ってむず痒そうに体をゆすりつつも、大人しく髪を弄られ着せ替え人形として遊ばれることを良しとしている。
……初対面の相手にこうも踏み入られて拒絶しないとは、少女のパーソナルスペースが狭いのか、それとも柊のコミュ力が相変わらずなだけなのか。
「俺の名前は荒木明、高校三年生だ。
さっきは怒鳴って悪かったな、まずは名前を教えてくれないか」
「……さ、佐久間、すず、小学生です」
「それじゃあ佐久間と呼ばせてもらうぞ」
「い、いいえ、すずでお願いします」
「……分かった」
名前呼びを許してくれるほど俺に心を開いてくれた、というわけではないのだろう。
どうにもすずは、自分の名字をあまり気に入っていないらしい。
「えーずるいですよ。
私もまだ先輩と名前で呼び合ってもいないのに」
「茶々を入れるな。
それですず、何があったのか教えてもらってもいいか」
「……逃げてきたんです」
「逃げてきた? いったい何に?」
「……馬に乗った、首のない騎士に」
首のない騎士__もしかして、それって。
「一から説明してもらえるか?」
「は、はい……え、ええっと、私の家は町の郊外にあって、あまり人が寄り付かないからか、普段は暴走族がバイクで走り回っているんです」
「暴走族」
「はい、夜中走り回っているのでうるさくて、中々寝つけなくて困っていたんですけど、ある日を境に暴走族はぴたりと現れなくなりました。
その時はそれを喜んでいたんですが……代わりに馬が地面を蹴る音や嘶きが聞こえ始めて」
「……」
「明らかに普通ではない存在に怯えて近づかないようにしていたのですが__ドアを叩く音が聞こえたんです。
私は不安に思いつつも、親が帰って来たのかと考えて、ゆっくりドアを開けました。
するとそこには血まみれの盥を持った首のない騎士がいました。
騎士は盥に入った血を私にぶちまけて、家の中に入ってきて。
……私は家の裏口から逃げ出しました。
ですが、騎士は馬に乗って追ってきました。
どれだけ逃げても、どこに隠れても、騎士は私の後ろについてきました。
今思えば弄ばれていたんだと思います。
馬に乗った騎士がその気になれば、簡単に追いつくことができたでしょうから。
ですが、あと少しで追いつかれそうだという時、騎士は歩みを止めたんです。
何故そうしたのかは騎士自身も分かっていなかったようですが……」
「……地縛霊だな」
「地縛霊?」
「ああ、生前の未練や死因から、特定の場所に囚われてしまった幽霊だ。
事情は知らんが行動範囲に制限がかかっており、そのせいで郊外周辺から外に出ることはできなかったんでろうよ。
……話の腰を折って悪かったな、続けてくれ」
「え……と、といっても、そのあと逃げた先でお二人と出会ったことぐらいしか、他に話すことはありませんが……。
……あ、で、でも、騎士から別れの最後にこんなことを言われました。
『お前は必ず死ぬことになる』と」
「__」
「こ、こうして逃げられたのですから、そんなわけ、ありませんよね……?」
……。
「首のない騎士の正体が分かった__それはデュラハンだ」
「デュラハン……?」
「デュラハンというと、イギリスの妖精の」
「ああ、正確にはイギリスを構成する国の一つ、アイルランドの妖精であり悪霊の一種だ。
デュラハンの姿は首のない騎士甲冑で、黒馬に乗っており、小脇には打ち取った首級か自らの首が抱えられている。
性格は凶暴で傲慢、目についた人間を追いかけては、眼に目掛けて鞭を振るい、家の人が戸窓を開けると、盥にいっぱいの血を顔に浴びせかけるそうだ。
これらの行いは、自らの姿を見られることを避けるためという説もある」
わかりやすいぐらいの悪霊、悪しき霊だ。
デュラハンの生前は評判の悪い貴族であることが多いともされている。
「これだけで中々に迷惑な輩だが……恐るべきはデュラハンが『死の予言』をするということ。
死人が出る家の前に現れるそうだが……今のお前には呪いがかけられているように感じる。
デュラハンの言葉からして、予言の対象は親ではなく、お前だったのだろう。
お前は近い未来、いずれ死ぬことになる」
「……ぁ」
「……あ、安心してくださいすずちゃん!
私達はいくつもの悪魔事件を潜り抜けてきましたから!
すずちゃんの呪いだって解けますし、デュラハンだって追い払ってみせますよ!
そ、そうですよね先輩……?」
「……あいにくと今回の悪魔事件は今までのように上手くいくとは思えないぞ」
「でも先輩はいつもそう言いつつ事件を解決してくれたじゃないですか」
「運よくな。
……だがその運も、今回で尽きたかもしれない。
正直言えば俺はデュラハンを、ヴィイやパズズより脅威だと認識している」
「……え?」
「エクソシストTRPG」におけるデュラハンの脅威度は4(天敵)。
パズズのように嵐や熱病を操れるわけでも、ヴィイのように災害を起こせたり邪視を持っているわけでもない。
戦闘の規模でいえば脅威度5(天災)には到底及ばない悪霊だが、それでも尚「エクソシストTRPG」の邂逅者たちからは、前者を超える脅威として恐れられる時も多かった。
それはなぜか。
「『死の呪い』は言わずもだが、一番の理由は攻略法が存在しないからだ。
こいつは弱点がなく、交渉も通じず、それでいて戦闘力が高い。
甲冑を纏い、馬にも乗っている明らかな武闘派。
更に俺の知っているデュラハンは何かしらの武器を持っていた。
そしてその武器を扱うために必要な武芸も修めている。
__弱点がないんだ。
真っ向勝負で祓うしか方法がない」
「な、なら……」
「俺たちに、それができると思うか?」
「……」
俺たちは今まで、知識や発想の転換によって、危機を脱してきた。
しかしデュラハンは、レベルを上げて装備を集めて倒すしかない相手だろう。
「そして付け加えるならデュラハンの『死の予言』も呪いとして際立っている。
俺たちがかつて遭遇したドレカヴァクもまた『死の予言』をおくる悪霊だったが、あれはクリスマス期間中にのみ限定されていた。
しかしデュラハンの『死の予言』には日時に指定はない。
同じ系統の呪いとしては、最強の部類に当たる」
名前を聞いた時点で分かっていたが、俺達が手を出していい相手ではない。
生前で「エクソシストTRPG」を遊んでいた時もそうだった。
ギミックボスの多い「エクソシストTRPG」でも異質な存在であり、キャラクリしたばかりの初期の段階でデュラハンと出会ったら逃げるしかないと言われていた。
世〇樹の迷宮でいうところのF〇E的な存在。
装備や技術もないうちに手を出せば確実に殺されてしまう。
それが邂逅者間におけるデュラハンへの共通の見解だった。
幸いにして今回遭遇したデュラハンは地縛霊。
行動範囲は人がほとんど住んでいない町の郊外、そこから離れることはない。
であるなら、近づかないよう気をつけ、身内に忠告しておけば保身は十分。
ここですずを見捨てて逃げれば、生き残ることはできるかもしれない。
……だが、俺はすずに初対面で酷い対応をしてしまった。
泣かせた子供を見殺しにする。
そんな話がどこからか漏れ、大学に伝わったらどうなるか。
針の筵、大学デビューには確実に失敗する。
それにちょっと罪悪感もあるし__
「__もういいです」
「?」
「もういいんです……どうせ生きてたところで、幸せになんてなれないんですから」
「な、なにを言っているんですかすずちゃん、そんなことは」
「……お母さんは、私が生まれる前から浮気をしてたんです」
浮気……?
「……托卵児なんです、私。
浮気がバレたのは最近のことで。
お父さんとお母さんが喧嘩をして、お母さんは家から出ていっちゃって。
あんなに優しかったお父さんは、私の顔がお母さんの浮気相手に似ているのが許せないって、私をぶつようになって。
お母さんに助けてもらいたくて連絡しても、もう赤の他人だから連絡しないでって言われて。
家の周りにあの悪霊が現れるようになってからは、お父さんも家に寄り付かなくなっちゃって……」
……重かった。
あの柊が二の句を告げなくなるほどに。
思えばそうだ。
なぜ彼女がデュラハンと遭遇した時の話の中に、親が出てこなかったのか。
「どこからかこの話が学校でバレたせいで、クラスの女の子たちに笑いものにされるようになって。
心配してくれる優しい男の子は多かったけど、憐れまれるのが苦しくて。
私の事情を知らない相手にも、深入りされたくなくて、余所余所しくなって。
……全部が全部、嫌なわけじゃないんです。
たまに給食で好きな食べ物は食べられますし、毎週見ている好きなテレビ番組もあります。
だけど、楽しいことがあっても、ふとした瞬間に頭を掠めて、吐き気がして、叫びたくなって、何かに当たりたくなって。
どこにいても、なにをしていても、ついてくるんです。
……なんで、なんで私はこの世界に生まれてきたんだろう。
そんなことを、ずっと思っていました。
だからもういいんです、このまま死んだって。
もう、楽になりたい……」
__疲れ切っている。
どうやっても救いのない人生に。
どれだけあがいても変えられない運命に。
未だ小学生でありながら、まるで人生の答えに行き着いた草臥れたサラリーマンのように、彼女はそう呟いた。
「……先輩、無理な相談をしてしまいすいませんでした。
ですが……どうか止めないでください、今回は私一人でも彼女の味方に__」
「……いいや」
光明一つない、希望一つ持てない。
それは俺自身にもつい最近まで覚えのある感覚で。
彼女ほど深い絶望ではなかったけれど、それでも心の奥底には常に諦めが染みついていて。
そんな俺の諦めを、消し飛ばしてくれた奴が現れたんだ。
「先に断っておくが、俺はお前を幸せにできるわけじゃない。
だけど__助けることならできる、筈だ。
すず、俺に任せろ」
==
それから俺は小一時間考えた。
デュラハンを祓う方法を。
デュラハンの脅威度は4(天敵)、基本的に交渉は不可能。
最も警戒すべき能力は死の呪いだが、近接戦の強さも怖いし、馬に乗っているので一度見つかってしまえば逃げるのも困難。
にもかかわらず、これといった弱点もないので、戦うとなれば力業で倒すしかない。
当然ながらにわかエクソシストの俺達に、そんな力など備わっていない。
地縛霊なのは不幸中の幸いだが、ヒット&アウェイで勝ち切るのは難しいだろう。
考えれば考えるほど、攻略にはルチアやジョル爺が味方に必須だとしか思えない悪霊だった。
万が一デュラハンを倒せたとしても、それですずにかかった死の呪いが解けるかは分からない。
俺たちの目的はデュラハンを祓うことではなく、すずを助けることにある。
デュラハンの対応にかまけて呪いを放置し、すずを死なせてしまえば本末転倒もいいところだろう。
教会にあった連絡網を拝借し、教皇庁から救援に送り込んでもらう約束を取り付けることには成功した。
そして派遣される予定のエクソシストは、ルチアとジョル爺。
デュラハンなんて大悪霊が現れたとあれば、教皇庁も戦力を出し渋ってはいられなかったのだろう。
とはいえ呪いが成立してすずが死ぬ前に、ルチアやジョル爺の到着が間に合うかは分からない。
なのであくまでこれは次善の策。
本気ですずを助けるつもりなら、この場にいる俺達だけで何とかしなければならない。
だがどうする。
一つだけ策を思いついたが、これは最終手段だ。
こんな方法では……。
……いいや違う。
必要なんだ、何かを手に入れるために、何かを捧げる覚悟が。
その覚悟が俺にはあるのか?
……。
覚悟ならある。
俺はすずを助けると決めたのだ。
すずのためではない、柊のためでもない。
俺自身の納得のために、彼女を助けるのだと。
「……報酬が必要だ」
「え」
すずは困惑の表情を浮かべた。
動揺する彼女を無視して、俺は要求を突きつける。
「すず、そういえば聞いていなかったな。
お前は俺に何を支払ってくれる」
「な、なにって……」
「手間暇かけてお前の問題を解決しようとしているんだ。
それに対する報酬はあって当然だろう。
すず、お前は何を支払う、金か?」
「……お、お金はありません」
「なら物か?」
「それも……ご、ごめんなさい」
聞きはしたが初めから知っていた。
彼女にろくな財産がないことぐらい。
それでも要求したのには、ある目的があったからだ。
「金もないなら物もない。
なら決まりだ__体で支払え」
「え」
「俺とキスしろ」
すずは最初、理解が及ばず鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべていたが、段々と理解が追い付いてきたようで、顔を真っ赤に染め上げていく。
「!?
せ、先輩駄目ですって! そういうのは! 相手は小学生ですよ!?」
「すず、俺とキスするのは嫌か?」
「い、嫌とかじゃ……わ、私全然かわいくないですし」
「いいや、そんなことはない、すずは可愛い。
お前とキスできるなら、命を賭けてもいいと思えるぐらい」
「そ、そんな……」
「ちょ、ちょっと!
わ、私を無視していい感じの雰囲気にならないでくださいよ!?」
喚く柊を無視して話を続ける。
すずの前に膝をつき、視線を合わせる。
「で、でも荒木お兄さんは、小夜子お姉さんの恋人なんじゃ」
「いいや、こいつとはそんな関係じゃない。
そもそも俺に恋人なんてできたこともない」
「そ、そうなんですか?」
「ああ、恥ずかしながらファーストキスもまだなんだ」
「わ、私もファーストキスは、まだ……」
「そうか、俺と一緒だな。
お前さえよければ俺と交換してくれないか」
「……そ、それが荒木お兄さんへのお礼になるのなら」
「決まりだな……目を瞑ってくれ」
「す、すずちゃん、そんな風に自分を安売りしない方がいいですって!
ファーストキスは人生で一回しかできないんですよ!?
先輩もです! どうしちゃったんですか?
今までどの依頼人にも、そんな要求してこなかったじゃありませんか!?
ま、まさか私がすずちゃんをオシャマに飾り立ててしまったせいで……!
ああああああ! 待ってください!
脳が! 脳が壊れる!?」
俺はすずの肩を抱いた。
すずは一瞬怯えたように震えたが、少しして、すべてを受け入れるように目を瞑り、僅かに唇を尖らせる。
俺は静かに、すずの唇に自らの唇と落とした。
そして柊は膝から崩れ落ちた。
「報酬は受け取った。
これよりお前の死の呪いを解くための儀式を行う。
柊、お前は荷物持ちだ。
儀式には色々準備しなきゃいけない物があるから、店が閉まる前に買いに行くぞ」
==
次の日の早朝。
まだ太陽が昇っておらず、夜の帳に閉ざされた時間帯、すずはドアを開いた。
嫌な予感がしたのだ。
なにか、重大なことを見過ごしているのではないのかと。
彼女は張り詰めた表情で部屋の中に入り、周囲を見渡す。
「……よかった」
ソファーの上には、男が眠っていた。
荒木明。
それは昨晩、彼女のために儀式を行い呪いを解いてくれた恩人である。
すずは、彼がどこにも行っていないことに胸を撫で下ろした。
しかし、違和感は拭えない。
何かがおかしい。
彼は確かにそこにいる筈で、にもかかわらず、そこにはいないような。
「……え」
そこですずは気づいた。
荒木明が呼吸をしていないことに。
肌は蒼白としており、血の通った生き物との温かみは感じられない。
「っ!」
すずは慌てて荒木の胸に耳を当てたが、心臓の鼓動は聞こえない。
死んでいる。
荒木明は生命活動を停止させていた。
「な、なんで!? なんで!? ……まさか」
すずはある可能性に思い至った。
自分は荒木明の手によって、呪いを解かれたと思っていた。
だが、おかしいと思っていたのだ。
あんなにも悩んでいた彼が、こうもあっさり解決策を提示したということに。
もし、もしもだ、あの儀式が呪いを解くためのものでないのなら。
だとすれば、何のための儀式なのだろう。
そもそも、あの女関係に不慣れそうな男が、大した理由もなく女にキスを強請るのか?
あのキス自体が、何らかの儀式だったのではないだろうか。
思えば身体から悪いものが取れた感覚は、彼とキスをした時だったかもしれない。
生まれて初めてした父親以外の異性とのキスに浮ついていただけだと思っていたが。
すずの頭には、かつてテレビで見たオカルト番組の内容が浮かんできた。
それは呪いに関するものだった。
藁人形に写真を張り、釘を打って呪いをかける古典的な導入。
そうして呪いをかけられた人は、何かしらの手段をもって潜り抜けていた。
それはなんだ?
たしか、そう__呪い移しだ。
自分にかかっていた呪いを人に押し付けて逃げ延びたのだ。
もし、それの逆のことができるとすれば。
荒木明が、すずにかかっていた呪いを、引き受けたのだとするならば。
それはまるで__自分が荒木明を殺したようなものではないか。
「ぁぁ……」
嘘であってくれ。
そう願ったが、彼女の脳はパズルのピースを埋めるように、自らの考察が事実であると確信を深めていく。
肌が青ざめる、鳥肌が立つ、身体が震える、歯がガチガチと音を立てる。
耐え切れず、声が漏れる。
「うああぁぁあああ……!!」
慟哭する。
すずは涙を流し、荒木の遺体に縋りつく。
その表情は、罪悪感と絶望感で綯い交ぜになっていた。
取り返しのないことをしてしまった。
待ち望んで、ようやく自分の元に訪れたヒーローを自らが殺してしまったのだ。
その絶望の深さは、今まで感じたことがないほどで__
背後から足音が聞こえた。
「!?」
「……」
そこにいたのは、柊小夜子。
今、すずが最もこの光景を見られたくない人間が、ドアの前に佇んでいた。
言い訳をしなければいけない。
だが、頭の中が真っ白になる。
どんな言い訳をすれば、彼女が許してくれるというのだ。
彼女の思い人を死なせてしまったのだ。
許される方法など、あるわけがない。
それでも、それでも優しい彼女であれば、理解を示して許してくれるという淡い期待はあったが、その期待に縋り言葉を紡ぐ勇気は沸いてこなかった。
出会ってたった一日。
されど彼女にとっては何年ぶりかになる愛情と安心感を与えてくれた。
怯える私を慰めるために抱きしめてくれて、きれいな服を着せてくれて、髪を結ってくれて、まだ抱きしめてくれて、もし姉がいるのならば、こんな人がいいと思わせてくれた。
そんな妄想に浸ることすら、もう許されない。
すずは人生で何度目になるか分からない絶望に落ちた。
奈落のような絶望に、もう這い上がることもできない絶望に、彼女の心は落ちていった。
「え__?」
__その時だった。
荒木明の腕がピクリと、僅かに動いたような気がした。
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