3話【九条兇然という男】


東京都千代田区、警察庁。


2020年に勃発した戦争の爪痕は、今もなおこの地に残っている。


かつて威容を誇っていた旧警察庁舎は、戦火によって半壊。

戦後、その隣に新たな警察庁舎が建てられたが、その姿は崩れ去った過去を思い出させるものだった。

警察組織にとっても、戦争の傷は深かった。警察部隊の半数以上が殉職した。


あの戦争中、異能者の脅威に立ち向かうために設立された「対異能防衛前線」が存在した。

異能者たちの暴走を防ぐべく、政府は数名の強力な異能者を中心に据えた。

彼らが築いた前線は、国家存亡の要であり、彼らこそが戦争を終結に導いた立役者だった。


その英雄たち、10名は国中から"十傑"と称えられるようになる。そして、その一角に名を連ねていたのが、現在の警察庁長官、”九条兇然くじょうきょうぜん”である。

戦争当時、彼は警視正の地位にあり、崩壊寸前だった警察組織の再建に尽力した。

その冷徹で的確な指揮は、多くの部隊を生き残らせ、戦後の混乱期に秩序を取り戻す鍵となった。


戦争が終息して数年が経ち、九条は新たな挑戦に乗り出す。

異能による犯罪が増加する中、彼は公安課に”対異能警察部隊”を創設したのだ。

異能事件を専門に扱うこの部隊は、国家と市民を異能の脅威から守るための最前線となり、九条の名は再び伝説となる。


警察庁の前に立つ燕。

目の前にそびえ立つ新たな警察庁舎、その圧倒的な威容に再び息を呑む。

戦争の爪痕が残るこの場所に建てられた建物は、威圧的な存在感を放ち、燕の胸に一瞬の重さを感じさせた。


その壮麗な建物の中へと燕たちは足を踏み入れた。

広々としたロビーには多くの警察官が行き交い、各々が業務に忙殺されている。

その光景は、ただの職場ではなく、この国の安全を支える最前線そのものだった。

燕はその様子を横目に、共に歩く魏藍と共に、迷いなく最上階の長官室を目指す。


最上階に到着し、長官室の前に立った時、燕の心には不思議な圧迫感が湧き上がる。

扉を前にして、まるでその先から何か巨大な力がこちらに迫ってくるかのようだ。

それは決して、九条長官から叱責を受ける恐れからではない。むしろ、九条兇然――国を救った英傑の一人が放つ威圧感そのものだ。

燕はその重さを感じ取っていた。部屋の中に潜む力が、わずかに扉の隙間から漏れ出ているような錯覚さえ覚える。


燕の胸の内にそんな思いが駆け巡る中、魏藍は動じることなく扉を二度ノックする。



「失礼します。政府科学技術・イノベーション事務局、異能研究技術開発部責任者、魏藍衝平です」


魏藍が一礼し、燕もすぐに続いた。


「同じく異能研究技術開発部、王来王家燕です。失礼します」


「来たか」

九条兇然は二人を一瞥し、いつもの無感情な声で迎えた。燕は背筋を正し、魏藍が切り出すのを待った。


「先日ご依頼いただいた件、試作品の納品についてですが…」


魏藍がそう言いかけたところで、九条は手を軽く振った。


「前置きはいい。結果だけを聞こう」


魏藍が口を閉じ、燕を見た。思わず「私?」と一瞬考えたが、すぐに気を取り直し、答える。


「はい。試作No.28は…失敗に終わりました」


燕が短くそう言い、直後に財前が記録用のカメラを九条の机に置いた。


「このカメラには、No.28の試作過程が記録されています」


「いや、必要ない。結果が分かればそれでいい」

九条は燕を見ず、椅子に座りながら無感情に返した。


燕は思わず驚きの表情を浮かべた。確認しないのか?と。すぐに声を出した。


「ご確認はなさらないのですか?」


「そうだ」


その淡々とした返事に、燕はさらに驚いた。こんな重大な件を、こんなに軽く受け流してしまうとは。しかし魏藍はまるで予期していたかのように動じることなく、静かに頭を下げた。


「申し訳ありません。今回も完成には至りませんでした」

燕もそれに続き、深く頭を下げる。


「構わん。そう簡単にできるとも思っていない」


九条は変わらぬ冷静な口調でそう言い、デスクに肘をつき、両手を組みながら続けた。


擬似能力イマジンスキルの完成まで、精進を続けろ。下がっていい」


燕は九条のあまりにも淡白なやり取りに呆然としたが、魏藍は肩をすくめて「いつも通りだ」とでも言わんばかりの様子で、無言で頭を下げ、扉に向かおうとする。だが、その瞬間、扉が勢いよく開いた。


「失礼します!」


警察庁の幹部であろう男が、慌てた様子で部屋に駆け込んできた。額に汗を滲ませながら、息を整える暇もなく九条に報告する。


「九条長官、少しお時間をいただきます!警察庁の前で、異能者による襲撃が発生しました!」


「わざわざ報告するまでもない。対異能警察部隊を出動させ、速やかに鎮圧させよ」


九条の指示は冷静そのものだった。しかし男はすぐには応じず、困惑した表情で言葉を続けた。


「いえ、長官…問題はその異能者です。ここ最近の異能者とは異質で、すでに部隊は壊滅状態です」


「…何?」

九条が眉をひそめる。その言葉を聞いていた燕がすかさず口を挟んだ。


「壊滅ですか?それにしては静かすぎませんか?」


男は驚いたように燕を見つめた。

「し、静かですか?」


「はい、襲撃があったなら、通常であればもっと音が響いているはずです。対異能警察部隊が対応しているのなら、尚更です」


燕の指摘に、魏藍も同意の言葉を付け加える。

「確かに。対異能警察部隊が出てるなら、あいつらはかなり荒っぽい捜査で有名だしな。そんな奴らが対応しているのに、この静けさはおかしい」


「さらに言えば、対異能警察部隊だけで対応できないなら、第一課やSAT、それに『例の部隊』も出てきてもおかしくない状況のはずだ」


魏藍と燕の意見に、九条も何か考え込む様子を見せた。その一方で、燕は幹部の男に質問を投げかけた。


「その襲撃者は、どんな異能を使っているのですか?」

「…影です。そいつは影を使って、静かに、気配を消して奇襲してきます」


「影…」

魏藍が繰り返すその瞬間、幹部の男の様子が急におかしくなった。彼は九条に向かって、ゆらゆらと不自然な歩みを始めた。


「…まさか⁉︎」


「っ!!長官!!!」


燕と魏藍が同時にその異変を察知し、警戒の声を上げた。男の足元に映る影――その影から、突然異形の存在が飛び出した。襲撃者だ。


影を利用した奇襲――それは音もなく、しかも標的に気づかれることなく接近できる恐るべき異能。男の影から現れた襲撃者は、手にアサルトナイフを握りしめ、勝利を確信したかのような冷笑を浮かべながら、九条に向かって一気に飛びかかってきた。



しかし、瞬きの一瞬で、目の前の光景は激変していた。

影から飛び出した男の身体は、扉の外まで勢いよく吹き飛ばされていたのだ。


燕はとっさに九条の方に目を向けた。九条は片腕を突き出している。彼の拳は、古傷だらけで荒れていたが、異常なほどの威圧感を放っていた。


ぬるいわ…」


九条は淡々とつぶやく。「ワシを誰だと思っている?」


扉の外で倒れ込んだ男は、膝をつき、苦しげに立ち上がろうとする。その顔には怒りと焦燥が入り混じっていた。

「さすがに、浅かったか…!」


男は歯を食いしばりながら立ち上がると、黒い影のように全身が変色し始めた。その瞬間、彼の動きが一気に加速した。


「だが、これで終わりじゃない!」


影と化した男は、燕の方へと猛然と突進した。燕はその殺気に即座に反応し、構えを取るが、その速度は異常なほど速い。


「肉体で崩せねぇなら、まずは精神面からだ!」


男の声が狂気に満ちて響く。


「部下だかなんだか知らねぇが、目の前で人が死ねば、少しは動揺するだろ!」


次の瞬間、燕の腕を強引に掴み、男はアサルトナイフを振りかぶった。その刃先が無慈悲に光り、燕の喉元を狙って振り下ろされようとする。燕はその瞬間、わずかに眉をひそめたが、冷静なまま相手の動きを見極めた。時間が止まるかのような一瞬だった。


男の笑いは狂気に満ち、勝利を確信したような表情が浮かんでいた。だが――燕の瞳は冷たく静かだった。


「バカね」


燕は低く、冷淡に呟いた。


次の瞬間、男の視界は天井を捉えていた。背中に走る激痛――何が起こったのか理解できず、ただ茫然としていた。いや、理解してしまうことが恐ろしかったのかもしれない。自分の腕は無惨に捻られ、そのまま床に叩きつけられたのだ。


「女だからって舐めたわね。あなた」

燕は無表情のまま、影の男の手からアサルトナイフを取り上げながら淡々と語った。


「王来王家は合気道に長けてるんだ。掴みかかるなんて最悪の手だったな、影男」


「合気道…だぁ?」

男は地面に押さえつけられながら、唇を震わせる。「この俺が…異能者の俺が、合気道なんかに…!」


燕は冷ややかに相手を見下ろした。異能の力に溺れ、自分の技術や判断を過信する者たちはいつも同じ結末を迎える。


「目的は何?」

燕は問いを投げかけた。

「九条長官の命?それとも、この場を混乱させるのが狙い?」


影の男は燕の質問には一切答えず、代わりに九条を鋭く睨みつけた。狂気じみた目には、決意と怒りが入り混じっていた。


「…答えろ、九条」

男は低く唸るように問いかけた。「“あれ”はどこだ…?」


「“あれ”…?」

魏藍が疑問に首を傾げたが、九条は無言で男を静かに見つめ返すだけだった。


「黙ってるつもりか、九条兇然!」

男は声を荒げた。「お前は知っているはずだ。この東京に存在する”ト”――」


その瞬間、言葉をかき消すように外から爆発音が轟いた。燕と魏藍は反射的に窓の外を振り返る。警察庁のすぐ近くの建物から黒煙が立ち上り、火の手が上がっていた。


「…必ず吐かせてやる、九条兇然…」

男はそう低く呟くと、身近にある物の影の中へとゆっくりと沈み込み始めた。


「待て!」


燕が瞬時に反応し、男を掴もうと手を伸ばすが、その指先が影に触れる寸前で、男の姿は完全に消えてしまった。影の中へと逃げ込んだのだ。


外では爆発による救助活動が始まり、消防車のサイレンや人々の慌ただしい声が響き渡っていた。燕は拳を握りしめたまま、焦りと苛立ちを押し殺しながら外の喧騒を見つめていた。



「九条さん、彼は何者ですか?さっき何か言いかけていましたが…」


燕が静かに問いかける。九条は軽く眉を寄せ、短く答えた。


「ワシにも解らん」


その言葉に、燕の表情が少し硬くなる。


「しかし、対異能警察部隊がいるのに侵入を許すなんて…。九条さん、最近の警察部隊、少し問題だと思いませんか?こっちに送られてくる被検体も、S細胞が既に死んでいることが多い。なんとか脳内のS細胞を使って実験はできてるけど、いつただの死体が回されてくるか分かりませんよ」


魏藍の鋭い指摘に、九条は軽く首を傾げた。


「ワシに意見か?」


その低く威圧的な言葉に、魏藍が間髪入れずに答える。


「俺たちは異能犯罪者に対抗するために必要な研究をしてるんです。十傑の1人でも意見ぐらいは言わせてもらいますよ」


二人の視線が火花を散らすようにぶつかる。魏藍の真剣な眼差しに、九条はしばらく沈黙した後、重々しく口を開いた。


「…まぁ、お前の言うことももっともだ。対異能警察部隊の行動はたびたび問題視されていた。それに今回のような侵入事件もある。だからだ――対異能警察部隊はワシの手で近々解体する」


「は?」

魏藍は目を見開いた。


「いやいや、異能犯罪者と戦える連中が集まってる部隊でしょ?解体してどうするつもりですか?俺たちの研究はどうなる?擬似能力の開発だって、あんたが指示したことだろ!そこを解体したら、被検体はどうなるんだ?」


「被検体の供給は変わらんさ」


「例の組織を使ってか」


九条は冷静に答える。「いいや。だが、例の組織はワシの指揮下にはない。だから、ワシの意志で動かせるわけではない」


魏藍は眉間にしわを寄せた。「じゃあ、どうする気ですか?」


九条は静かに、しかし確信を持って答えた。


「以前から考えていた。今までの対異能警察部隊とは違い、異能犯罪に特化した新たな組織を立ち上げる。名を――"異能対策室"」


「異能対策室…?」魏藍が驚きを隠せないまま繰り返す。


「だが、この組織を作るにあたって条件がある」


そう言うと九条は、指を燕に向けた。


「王来王家燕。お前がその組織の班長になれ」


「班長…私が?」


燕は驚きを隠せない。九条は一瞬も目を逸らさず、厳然たる態度で続けた。


「そうだ。それがこの組織を作り上げ、政府科学技術・イノベーション事務局異能研究技術開発部の研究を続ける条件だ」


燕は唇を噛んだ。重責を感じながら、魏藍に目を向けた。


「魏藍さん…どうすれば…」


魏藍はしばらく沈黙してから、低く絞り出すように答えた。


「…王来王家、俺はな…2020年の異能戦争で親も、友も、恋人も失った。あの時の俺は、何もできなかった。ただの非異能者には、異能者に立ち向かう術なんてなかったんだ…」


彼の声には、過去の苦しみと怒りが滲み出ていた。


「だから俺は、異能者に対抗できる力を必ず作りたいんだ!そのための研究が、もう目の前まで迫ってる。あと少しで――!」


燕は魏藍の言葉に深く息を呑んだ。彼の執念と決意が、重く心に響いていた。


「魏藍さん…分かりました」


燕は大きく息を吸い込み、決意を固めた。


「九条長官、その話、引き受けます」


九条は小さく頷き、燕の決意を受け止めた。

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