眉月〜唐仙記〜

入江 涼子

前編

 古来、月のような眉は美人の条件とされた。それを取って、三日月のことを眉月と言うようになったという。



 あれから、どのくらいの時間が経ったのか。わからずに、つい眠ってしまったらしい。

 女こと楊玉環は三日月のような眉をしかめながら、目を開けた。何故、自分はこのような所にいるのだろう。雲の中、仙女として暮らし始めてから幾年も経った。

 それなのに、過去の事はついこの間の事のように蘇ってくる。

 また、玉環は瞼を閉じた。



 あれは幼い少女の頃の事だった。自分には二つ年上の義理の姉がいた。名を柚杏(ゆあん)といって、色が白く背の高いすらりとした少女である。

 柚杏が玉環こと幼名を琉安(るあん)のいた家にやってきた。その当時、柚杏は八歳で琉安が六歳の春の事であった。

「…琉安、この子はわけあって親戚のおうちから引き取ってきたの。名を柚杏というから、仲良くしてあげてね」

 母が笑いながら紹介をしたが、琉安は気に入らずに柚杏を見てそっぽを向いた。面白くなかったからだ。

「…仲良くできる訳ないわ。その子、貰われっこなんでしょう。みんなから、可愛がられたくて養女にでもなったの?」

 琉安は睨みながら六歳児とは思えない発言をしてみせる。途端に母は眉をつり上げた。

「琉安!失礼な事を言うもんじゃありません。柚杏はご両親を亡くしたから、うちが引き取ったの。可愛がられたくて引き取られるような子がいますか」

「だって、わからないじゃない。もしかして、柚杏さんは売られたんじゃないの?」

 琉安がひねくれて言った時だった。

 いきなり、ばちんと乾いた音が鳴った。そして、自分の頬に感じるひりひりとした痛みに琉安は驚いた。そう、平手打ちをされたのだ。

 目の前には眉をつり上げてこちらを睨む柚杏の姿があった。

「…あなた、いい度胸をしているわね。あたしの事を貰われっこと言ったり、人買いに売られたと言ってみせたり。どんな考え方をしていたら、そんなことが口から出るのかしらね」

 声は冷たく低いものだった。琉安は自分が殴られた事に呆然としていたが。

 けど、柚杏を怒らせたらしいことはわかった。すると、母はおろおろとしながらも二人をなだめようとする。

「ま、まあまあ。二人とも、落ち着きなさいな。柚杏ちゃん、うちの娘がひどいこと言ってごめんなさいね。普段は琉安もこんな事はいわないのだけど」

「いえ、かまいません。気にしていませんから」

 柚杏は淡々とした様子で言う。

 それを聞いた時、琉安はまなじりに涙が浮かぶのを感じた。 そして、しばらくは大泣きをして柚杏なんか大嫌いと叫びながら、母に縋ったのであった。

 それを冷ややかな目で柚杏が見ていたのは未だに忘れられなかった。



 あれから、数日が経った。琉安は柚杏を避けてばかりいた。一緒に遊ぼうと誘いに来たり、学問を共に学ぼうとか柚杏が言ってくるはずもなくいたずらに時間が過ぎていくばかりだった。こちらとしても、礼儀作法などを学ぶのを一緒にやれるはずもなくそのままになっていた。

 両親や兄、姉たちは柚杏と仲良くしているという。自分の家は地方の役人なので当然ながら、金持ちではある。

 そんな自分の身の回りの世話をしている侍女の老婆、炎婆が言っていた。

『…お嬢様は柚杏嬢を見習うべきですよ。初対面の方にあんな売られたなどという事は言ってはいけません』

 母から注意された事を炎婆からもいわれる。さすがに琉安は嫌になって耳を塞いだ。すると、炎婆は仕方がないというような表情になって扉を開けて部屋を出て行ってしまった。

 私は悪くないのに。そう思ったが、胸がちくりと痛む。私、やっぱり、ひどいこと言ってしまったのだろうか。

 幼いながらに琉安は申し訳なさと不安感に苛まれる。これが罪悪感だとはまだ、気づいていなかった。

 琉安は炎婆が出て行った戸口を見つめながら、人知れず、涙を流した。



 それから、さらに二日が経った。琉安は柚杏がいるという家の東側に作られた離れの部屋に行ってみた。一人でやってきたのだ。

 もちろん、柚杏に謝るためである。許してもらえるだろうか。そんな事ばかりが頭の中をぐるぐると回る。

 柚杏のいる部屋の扉の前に立つと声をかけた。いきなり、開けるのはためらわれたからだ。

「…あの、柚杏さん。いるかな?」

 いくら、義姉になったとはいえ、まだ会ってから日が浅い。それに、ろくにしゃべった事もない相手である。琉安はどきどきと心の臓を高鳴らせながら相手の返事を待った。

「…何?誰なの?」

 か細くはあったが返事があった。確かに、これは柚杏の声である。

 琉安はここぞとばかりに声を張り上げた。

「…あの、柚杏さん。私、琉安よ。この間はその。ごめんなさい」

 どもりながらも謝ってみた。だが、相手からの返事はない。

「あ、あの。柚杏さん?」

 もう一度、呼びかけてみる。すると、柚杏の笑い声が扉の向こうからあがった。

「あはは!つい、この間まではなんて生意気な子供だと思ったけど。まさか、こんなにすぐに謝りに来るとはね。面白い、わかったわよ。あたしの方こそ、殴って悪かったわ」

 そういいながら、柚杏は自身の部屋の扉を開けた。

 そこには、髪を簪などで綺麗に結い上げて、絹の衣を身にまとった美しい少女がいた。顔立ちは自分よりも大人びて見える。

 それにどこか、うらやましいという感情が芽生えてくる。私よりもこの柚杏の方が綺麗だし、賢そうだ。なのに、どうして、貰われっこだなんてひどいことがいえるのだろう。

 六歳ながらに自己嫌悪に陥る琉安であった。

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