第四章 第八話

週末の昼下がり、わたしはいつものように部屋で孤独に耐えていた。その時、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。画面には「七條 雪子」の文字が光る。母からだから、嫌な予感がしたが、無視することはできない。恐る恐る電話に出ると、母の震えた声が聞こえてきた。

「早雪……真雪が、真雪が事故に遭ったわ」

その言葉を聞いた瞬間、わたしの中に、喜んではいけないと分かっているのに、安堵の感情が湧き上がった。真雪がいなければ……。両親の期待に応えられないわたしを、いつも嘲笑う真雪がいなければ……。そう願っていたわたしは、心のどこかで、真雪の不幸を願っていたのかもしれない。

「意識不明だって……」

母は、泣きながら言った。わたしは、そんな母の声を聞きながらも、どこか冷静でいられた。それは、真雪の不幸が、わたしの幸せにつながるかもしれないという、醜い期待があるからだろう。

「すぐに病院に来なさい」

母にそう言われて、わたしは言われるがままに、家を出た。病院に向かう電車の中で、わたしは自分の醜い感情と向き合っていた。わたしは、真雪が苦しんでいることを、心のどこかで喜んでいる。そんな自分が、ひどく醜く、嫌でたまらない。

病院に着くと、両親はロビーで泣き崩れていた。父は顔を真っ赤にして、母は椅子に座り込んで、ただ嗚咽を漏らしている。

「早雪、真雪が……」

父は、わたしを見るなり、そう言った。わたしは、何も言えず、ただ俯くしかなかった。

「お前は、どうしてそんなに冷静なんだ!真雪が危ないんだぞ!」

父は、わたしを怒鳴りつけた。わたしは、何も言い返せない。わたしは、両親の前で、自分の感情を偽らなければならないのだ。

病室に向かうと、真雪がベッドに横たわっていた。頭には包帯が巻かれ、顔は青ざめていて、心電図のモニター微かに波を打っている。わたしは、真雪の姿を見て、一瞬、息をのんだ。いつも、わたしを馬鹿にして、嘲笑っていた真雪が、こんなに弱々しい姿になっている。どうしても、わたしに悲しむことは出来ない。

「真雪……」

母が、真雪の手を握りながら、そう呟いた。わたしは、ただ、その光景を見ていることしかできない。

嘘でも悲しまなくてはならない。

嘘でも泣かなくてはならない。

それなのにわたしは、涙を流せないし、悲しみも感じられない。

どれくらい時間が経っただろう。わたしが、真雪のベッドの横に立っていると、突然、心電図のモニターが激しい音を立て始めた。真雪の体が、痙攣し始めたのだ。

「先生!先生!」

母が叫ぶ。父も、行きも絶え絶えな様子だ。看護師が慌てて部屋に入ってきた。

「真雪、しっかりして!」

父が、真雪の肩を揺する。だが、真雪の痙攣は止まらない。真雪は、苦しそうに、何かを叫び始めた。


「いやだ!わたしは……わたしは……」

真雪は、何かを言おうとしている。わたしは、その姿を見て、恐怖に襲われた。真雪の目は、大きく見開かれ、何かを訴えかけているようだった。

「やめて!やめて!」

真雪は、わたしに向かって、そう叫んだ。わたしは、真雪の言葉の意味が分からなかった。わたしは、真雪に何かしただろうか。何もしていないはずなのに、真雪は、わたしに向かって叫んでいる。

「早雪……早雪……」

真雪は、わたしを呼びながら、苦しんでいた。わたしは、その光景を見て、自分の醜い感情が、真雪を苦しめているような気がした。わたしは、真雪の不幸を願っていた。そのことが、真雪を苦しめているのかもしれない。

わたしのせい。わたしのせい。

わかっているのに認められない。認めたくない。

真雪の叫び声は、やがて、小さなうめき声に変わり、そして、心電図のモニターは、無機質な一本の線になった。

「真雪……真雪!」

母が、真雪の体に抱きつき、泣き崩れる。父は、椅子に座り込んで、ただ茫然としていた。

わたしは、その光景を、ただ見ていることしかできなかった。真雪の、最後に苦しんだ顔が、わたしの目に焼き付いて離れない。わたしは、真雪がわたしに向かって叫んだ「やめて!」という言葉を、何度も何度も反芻した。

わたしは、毎晩、悪夢を見るようになった。夢の中では、真雪が、わたしに向かって「やめて!」と叫んでいる。わたしは、その声に、何度も目を覚ます。

わたしは、真雪を苦しめてしまったのだろうか。わたしが、真雪を嫌っていたこと、真雪の不幸を願っていたことが、真雪を苦しめてしまったのだろうか。

わたしは、自分の醜い感情が、真雪を殺してしまったような気がした。わたしは、この恐怖から、一生逃れることができないのだろうか。

一葉が死んでから一ヶ月が経った。毎晩わたしを苦しめていた悪夢は、いつの間にか見なくなっている。一葉の苦しむ姿が目に焼き付いていたはずなのに、それも少しずつ薄れてゆく。けれど、わたしは、一葉の死ぬ姿を見た恐怖から乗り越えたわけではなかった。ただ、現実から目を背けているだけなのかもしれない。



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