第一章 南條美和

第一章 第一話

わたしは、二十二歳になった。

成人式からさらに二年。相変わらず、自室のベッドの上で、冷たい天井を見上げる生活は続いていたけれど、わたしの中の「普通になりたい」という呪いは、少しも消えていなかった。もう、叶わないと頭ではわかっているのに、その願いを捨てることはできない。それは、わたしの存在そのものを支える、唯一の柱のようになってしまっていたから。



この春、わたしは、また一つの大きな決断をした。母と無理して大学に復学したのだ。休学を続けて、二十歳を過ぎても大学生という肩書きにぶら下がっている自分自身が、もう耐えられなかった。もう、これ以上、世間から見て「レールから外れた人」というレッテルを濃くしたくなかった。

復学の手続きを終え、久しぶりに大学の門をくぐる。抱える痛みは、一気に八十パーセントになったりはしないけれど、それでも、外に出られるようになったことは、わたしにとって、大きな一歩だった。身体は重いし、心臓は常にバクバクしているけれど、それでも、家に閉じこもって絶望的な未来を想像するよりは、いい気がした。

わたしは、大学のキャンパスを、まるで初めて入る異国の地のように、恐る恐る歩いた。周りの大学生たちは、みんな楽しそうで、自信に満ち溢れているように見える。彼らが、わたしが過去に経験した地獄を、何も知らずに生きていることが、羨ましくて、少し憎らしかった。

そんな中、わたしを、もう一つ縛り付けているものがある。それは、中学時代にできた転校生のまゆと、無理して出た卒業式で交換したメールのアドレスだ。

まゆと連絡を取るのが怖いのに、わたしは、そのメールを消せない。まゆとの関係を手放したら、本当に一人になる気がして怖い。まゆは、わたしと違って、普通になれたと、風の噂で聞いた。まゆは、大学へ進学し、サークル活動もしているらしい。わたしが目指した「普通」を、まゆは手に入れたのだ。

わたしが、まゆに連絡できないのは、わたし自身の「普通ではない現実」を、まゆに突きつけられるのが怖いからだ。まゆが、わたしを過去の痛みを抱えたままの「普通じゃない子」として認識し、離れてゆくのが怖い。それでも、そのメールアドレスだけが、わたしと「普通の世界」をつなぐ、最後の細い糸のように思えてしまう。

わたしは、なんで、八年もたったのに、普通を諦められないのだろう。中学時代から、ずっと同じ場所で足掻いている自分が、滑稽で、情けなくて仕方がなかった。

大学の講義は、出席者が多い。わたしは、いつも教室の後ろの方に座り、なるべく目立たないようにしていた。そんな中、わたしに声をかけてくれたのが、早雪だった。

早雪は、わたしとは全く違うタイプの子だ。明るくて、誰に対しても分け隔てなく接する。友達も多く、サークル活動にも積極的に参加している。彼女は、わたしが目標としていた「理想の普通の子」そのものだった。

早雪は、わたしが一人でいるのを見つけると、すぐに隣に座り、優しく話しかけてくれた。

「美和ちゃん、この課題、難しくない?一緒にやらない?」

わたしは、最初は警戒していたけれど、早雪の優しさには、裏がないように思えた。学校の先生たちや、適応指導教室の先生たちの嘘だった優しさとは違う。彼女は、わたしが不登校だった過去も、抱えている痛みも知らない。ただ、目の前の「美和」という人間として、接してくれている。

わたしは、久しぶりに、誰かといることに安堵を感じた。早雪は、わたしを、教室の隅から「普通の世界」に引き上げてくれる、新しい「強制力」になってくれた。

けれど、わたしの中に潜む「孤独への恐怖」は、早雪との関係が深まるにつれて、再びわたしを苦しめ始めた。

早雪は、他の友達とも仲がいい。彼女が、わたしではない誰かと楽しそうに話しているのを見ると、わたしの中の不安が、まるで毒のように広がってゆく。まゆの時と同じだ。「この子も、わたしを置いて、どこかへ行ってしまうのではないか」という恐怖。

わたしは、早雪を取られるのが怖くて、まゆの時のように、無理をするようになる。早雪が誘うものは、どんなに心の中で「嫌だ」と思っても、絶対に断れなかった。課題を一緒にやるのはもちろん、彼女が参加するサークルのイベントや、友達との集まりにも、必死でついていった。

笑顔が貼り付いて、身体は常に緊張している。家に帰ると、ドッと疲れが押し寄せ、布団の中で動けなくなるけれど、それでもわたしは、その辛さに耐えた。なぜなら、早雪という「普通」の証明を手放すことのほうが、もっと怖かったからだ。

早雪の隣にいることで、わたしは「普通の子」のフリができる。このまゆに続く新しい「強制力」が、わたしを、もう二度とあのリビングの絶望的な孤独に戻さないでくれると信じていたかった。

わたしは、その「普通への執着」と「孤独への恐怖」の板挟みになりながら、大学生活を再開させたのだった。わたしにとって、大学は学びの場ではなく、「普通の子を演じる劇場」でしかなかった。

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