プロローグ 第二一話

五月、わたしは特例校の小学部へ転校した。わたしにとって、小学生の間で二回目の転校だった。わたしは引越しもしていないのに、わたしだけが、場所を転々としている。

この学校は、校則や制服はないし、行かなくても欠席にならないと言う。みんな私服で、思い思いの時間を過ごしている。わたしはこの雰囲気が嫌だった。希望を見つけようと、普通な部分を探そうとしても見つけられない。先生は優しいけれど、それでも先生という存在と関わりたくない。

先生たちは優しい。それはわかる。ベテランの先生も、若い先生も、みんな穏やかな目をしている。けれど、この「何でも許される」という空気が、わたしには、「不登校児のための学校」という、わたしが最も認めたくない事実を、突きつけてくる。

「ここは、わたしが『普通』から脱落した場所だ」

そう思うと、どんなに先生が優しくても、この環境が辛くて仕方がなかった。わたしは、ここを「普通に戻るための場所」だと思い込もうと必死だったけれど、ここはただの「傷ついた子の避難所」でしかなかった。

毎日、家に帰ると、母がわたしの様子を尋ねる。

「美和ちゃん。新しい学校、どう?先生、優しいでしょう?お友達はできた?」

母は、わたしが新しい学校で再び傷つくことを、心底恐れている。わたしは、母の顔を見て、また嘘をついた。

「うん。楽しいよ。みんな、優しいし、先生も、すごくいい人だよ」

そう言わなければ、母はまた、わたしのために別の「逃げ場」を探し始め、わたしが「普通」からさらに遠ざかることになる。そして、母のあの心配そうな顔を見るのが、わたしには一番辛かった。わたしは、母を守るためにも、「大丈夫な子」のフリをし続けなければならなかった。

わたしは、九ヶ月間、その「楽しい」という嘘と、「普通じゃない場所」にいる辛さに耐えながら、特例校の小学部を卒業した。

そして、四月。わたしは、そのまま特例校の系列中学校に進学した。ここでの生活は、小学部の「緩さ」が全然変わっていなかった。いや、むしろ、より一層、その「緩さ」が顕著になっていた。

中学校の校舎に足を踏み入れた瞬間、わたしは、小学部の頃とは違う、新たな「嫌な感覚」を覚えた。中学部の雰囲気は、小学部よりも少し「ぬるい」だけではなかった。どこか、生徒たちの中に、諦めのようなものが漂っている気がした。学校全体が、「どうせ、わたしたちは、普通の子とは違う」という、暗黙の了解を共有しているように感じられるのだ。

そして、わたしは、もう、「辛いのに楽しいフリ」を続けることができなくなっていた。小学部での九ヶ月間、無理に笑顔を貼り付け続けたことで、わたしの心は、限界を超えて疲弊している。もう、誰にも嘘をつけない。

「ママ……」

中学に進学して、数週間が経った頃。わたしは、朝、外用の服に着替えることができなくなった。体が動かない。朝になると、胃の奥から冷たいものが込み上げてきて、吐きそうになる。

わたしはまた母子登校に逆戻りして、母と空き部屋で過ごすことになった。わたしは今までで一番普通じゃない場所にいた。普通の学校に通えなかったわたしが、不登校の子のための学校にも行けなくなり、空き部屋にいる。

わたしは、ここの先生たちを信用できなかった。前の学校の担任、教頭先生、そして適応指導教室の先生たち。わたしを助けてくれるはずの「大人」は、最後はみんな、わたしを高圧的に責めたり、理不尽な条件を突きつけたりする。

わたしは、特例校の先生たちが、どんなに優しく話しかけてきても、その優しさの裏に、いつか裏切りや、理不尽な怒りが潜んでいるのではないかと、疑わずにはいられなかった。

「先生たちなんて、すきになれない」

わたしは、心を固く閉ざしたまま、開くことが出来なくなっている。母の隣にいるという、物理的な安全はあったけれど、わたしの心は、家族以外は誰も信用できないという、深い孤立の中にいた。家族には、何をされても、信じないことが出来ない。それが、余計に辛くなることだと知っていても、わたしには、もう家族しか頼れる場所がなかった。特例校という、最後の避難場所でさえ、わたしは「普通」を見失い、「安全」を信じることができなくなっている。



中等部には授業はあるけれど、参加は自由で、先生が時々進めに来た。

「美和さん、今日の美術は楽しそうだよ。どう?少しだけ、覗いてみない?」

でも、わたしは授業が怖くて出られない。文字通り参加自由のつもりで先生は言っているのに、わたしはプレッシャーに感じてしまう。わたしは、自分の「異質な存在」だということを、他人に認識されるのが怖かった。教室のドアの前まで行っても、生徒たちの楽しそうな声を聞くと、わたしは引き返してしまう。

そんな自分が、嫌で仕方がない。わたしは、心の底から願っていた。わたしは「普通」を求めるあまりに、「普通でない場所」へ逃げてきた。その結果、わたしは、「普通」というゴールから、遠すぎる別の道に切り離されてしまったのだ。

普通になりたいと何度も頑張ろうとしたけれど、教室のドアの前で引きかえしてしまう。教室の中の「普通にちかい子」たちと、空き部屋の「普通ではない子」のわたし。そのドア一枚が、わたしには、決して超えられない壁のように感じられた。

春に中学校に入学してから、季節は巡り、夏が過ぎ、秋になった。

わたしが、「普通の子」として過ごしたかったはずの、中学一年生の「1年間」が、あっという間に過ぎていった。わたしは、何一つ「普通」を経験することなく、時間だけが、わたしを置いて、進んでゆく。わたしの時間は、あのキーホルダーが壊された瞬間から、ずっと止まってしまっているようだった。

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